第29話

「おめでとうと言って良いのね?」

「ええ、叔母様」


 ようやく叶った息子の想いを、アトレイの母が喜んでいるのだとわかった。


「貴女しか見えていない、盲目のような姿だったわ」

「母上、辞めてくれ」


 目の前で、アトレイと叔母が交わす言葉に、そこそこ長い既婚の記憶を持つヒルデガルドも、なんだか恥ずかしくなってしまった。


「諸々は、後日書面を交わそう」


 父が叔母へ言うと、アトレイの両親は揃って頷いた。


 ヒルデガルドはそれを、不思議なものを見るような気持ちで眺めていた。


 ほんのちょっと前まで、少なくとも今朝まで、こんなことになるとは思わずにいた。

 死に戻った世界に馴染むことに精一杯で、ローレンの未来が開けることを考えるのに手いっぱいで、自分を見つめ直すことが間に合わずにいた。


 それなのに。アトレイは、初めからヒルデガルドを見てくれた。


 そうだわ、アトレイ。貴方、昔っからそうだった。独り身を通していたのはもしかしたら⋯⋯、


 それ以上は考えないことにした。

 過去の自分と今の自分が少しずつ変わっているように、あの頃のアトレイも今のアトレイとはまた、別の生き方を選択した人間なのだ。


 そうであるなら、あのいつだか廊下で擦れ違ったクリスフォードもまた、ヒルデガルドの知らない生を生きる別の人なのだ。


 さようなら。旦那様。


 弔いはとっくに終わっていたのに、漸くちゃんとお別れが言えたような、そんな気持ちになった。



「アトレイ、見て、王妃様のお衣装、素敵だわ」

「ええ?君だって綺麗だよ」


 ええ?と言いたいのなこちらである。

 口の重いほうであるアトレイの歯が浮くようなセリフに、ヒルデガルドはええ?と困惑した。


 国王陛下が開会の宣言をして、王族のダンスが披露されて、それは前世で何度も目にした光景なのに、ヒルデガルドは胸が弾むようだった。


 このごろ思う。

 だんだん前の生から離れていく。

 クリスフォードと愛し合い、心が離れて、オースティンを育てて、侯爵家のために生きたヒルデガルドが、少しずつ少しずつ薄らいでいく。


 それをどこか淋しく思いながら、懐かしんでいる。



「ヒルデガルド、踊ってくれる?」


 今日のアトレイは、始終こんな具合に、甘えるようなおもねるような、なのに決して断らせない強さを孕んだ物言いをする。


 それは昨日まで知らないアトレイの姿で、彼の中に、そういう「欲」があることを感じさせた。そうさせているのが自分であることに、ヒルデガルドは前世も今世もなくなって、喜びとも戸惑いともつかない気持ちにさせられた。


 どちらともなく繋いだ手。

 そのまま互いの顔を見つめてフロアに出れば、二人を知る家々は、そういうことかと思ったようである。


 ローレンが後継を降りてヒルデガルドが次期当主に立つことは、未だ公にはされていなかったが、そういう話はどこからか漏れて、最近の釣書には「婿入り」を願うものが混ざるようになっていた。


 こんなふうにアトレイと向き合うなんて。

 背中に添えられる手が熱い。組み合わせた互いの手の平が薄っすら汗を掻くようで、だがそれもアトレイが一歩足を踏み出せば、すっかり忘れてしまった。


 アトレイにいざなわれてダンスを踊る。これからの人生を、アトレイと踊る。


 社交慣れしている筈の嘗ての侯爵夫人は、すっかり初めて社交に足を踏み入れたばかりの乙女となっていた。


「ヒルデガルド」


 耳元にアトレイの声がして、それが思いのほか近くにあって、思わず見つめた琥珀色の瞳には、自分の顔が映っていた。


 駄目よ、ヒルデガルド。そんな顔をして。

 それはまるで、小説か舞台に出てくる恋する乙女の顔だった。


 また誰かに恋をしている。

 もう、二度とないことだと思っていた。


 思わず滲んでしまう涙を、ヒルデガルドは気合いで引っ込めた。

 こんな晴れやかな日は、嬉し涙すら流すのは勿体ない。アトレイと、思いっきり楽しむんだ。


「アトレイ、楽しいわ」


 そう言ったヒルデガルドにアトレイは、


「良かった」と言って、はにかむ笑みを浮かべた。アトレイのそんな顔を見るのも初めてで、ああ、私たち、これからお互い知らない人生を一緒に歩いていけるのだわ。

そう思った。



 楽団が二曲目の演奏を始めても、ヒルデガルドとアトレイは、向かい合ったまま離れなかった。そのまま再び踊り始めた二人の姿を、ファイナルの舞踏会の夜に貴族の前で披露した。


 ちらりと両親の姿が見えた。側にアトレイの両親もいた。

 彼らがどんな表情だったかは、確かめられなかった。


 アトレイがくるりとヒルデガルドをターンさせて、それから進む方向を変えてしまった。まるで両親たちに、後から茶々を入れられまいとするように、奥へ奥へと進んでいく。


 終いには、二人はダンスフロアの中央で、互いを見つめて踊っていた。


「アトレイ、わざとここまできたの?」

「間違っても君に釣書なんか、金輪際届いてほしくないからね」


 知らなかったアトレイの独占めいた言葉に、ヒルデガルドはうっかり溺れてしまいそうになった。



 ホールから外に出ると、すっかり喉が渇いていた。

 近くに給仕がいるだろうか、冷たい飲み物が欲しくて、ヒルデガルドは周囲を見渡した。


「あ、彼処にいるわ」


 向こうに給仕を見つけて、そちらに向かって足を踏み出したところで、ヒルデガルドは馴染んだ淡い金を見た。


 金とも銀ともつかない淡く燦めく白金の髪。思わず見つめてしまったためか、あちらもこちらの視線に気がついた。


 クリスフォードが振り向いて、ヒルデガルドを見た。





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