第28話
ローレンの言う通りだ。
この偽りのない眼差しから逃げていたのは、ヒルデガルドのほうだ。
こんなに真っ直ぐ向き合ってくれる、それが若さなのだとわかりながら、胸の内に誤魔化せないほどの痺れを感じていた。
「アトレイ⋯⋯」
「遅刻するぞ」
見かねた父が、甘やかな空気が遮断した。執事が生ぬるい目で見ている。侍女のルイーズも、なぜだかローレンの侍女のヘレンまで来て、二人の遣り取りをじーっと見ていた。
母は眉を下げながら、漸く通じたアトレイの労をねぎらうように微笑んだ。
「アトレイ。詳しいことは明日以降だ。バートンとペネロープには私から話そう」
バートンとペネロープとは、アトレイの両親である。叔父夫婦とは、この後王城で打ち合わせるつもりなのだろう。
「まだ、ヒルデガルドのローレンとの後継差し替えも、お前たちの、なんだその⋯⋯、婚約についてもだな、公表したわけではないからして、今日は礼節をもって清く正しい行動するように。わかったな」
父は、似合わない厳しさを前面に出して言ったが、ヒルデガルドは知っている。父がとても喜んでいるのだと。
前の生でローレンを弔って、父も母も、いつローレンの後を追っても可怪しくないほど憔悴していた。
両親を生かしていたのは、家の存続があったからで、貴族の責任が二人を生かしているようなものであった。
その両親を救ったのは、アトレイだった。
既に二十六歳となり、青年貴族として生家の事業の一端を担っていたアトレイは、ローレン亡き後、伯爵家の全てを引き受けてくれた。
あの時の、両親の安堵した様を、ヒルデガルドは今もはっきりと思い出すことができる。
父は、アトレイを幼い頃から可愛がっていた。今だって、こんなに嬉しそうな顔をしている。
「ヒルデガルド、行こうか」
アトレイに伴われて玄関ホールから外に出る。
今宵は二人とも、初めての夜の社交場である。アトレイとの人生の始まりの夜だ。
ヒルデガルドの脳裏に、嘗ての夫が思い出された。心から一心に愛した夫だった。だがそれも、もう終わった生での話なのである。
貴方も、今度は別の幸せを生きてくださいね。
『奥さん』と
王城まで向かう馬車の中、二人はどこか気恥ずかしくて無言のままだった。同乗するルイーズもアトレイの従者も、黙してそんな二人を見守っていた。
馬車を先に降りたアトレイが振り返り、ヒルデガルドに手を差し伸べた。
ステップを降りるヒルデガルドに、手を貸すアトレイ。そんなことは、今まで何度もあったのに、ヒルデガルドはこの時ばかりは、四十代ではなく初々しい令嬢の心に戻っていた。
「ヒルデガルド」
並び歩きながら、アトレイに名を呼ばれた。
「なに?アトレイ」
俯き加減になったのは、ヒルデガルドの名を呼ぶ声音に、甘い響きを感じたからだ。
「幸せにする」
ヒルデガルドは、思わず立ち止まった。
アトレイを見上げれば、アトレイもまたヒルデガルドを見つめた。
「ずっと言いたかったんだ」
「アトレイ⋯⋯」
「君は気づかなかっただろう」
そうなのだろうか。そうではないから、ローレンは姉を叱ったのだ。こんな青年らしい真っ直ぐな感情を向けられて、それは息苦しいのに甘く強く胸に響いた。
「知ってたわ。だって貴方は、私が心から信じることのできる人だもの」
ヒルデガルドを愛すると言った夫だったのに、彼は結局、別に愛を求めた。手痛い裏切りの辛さを教えたのは、最愛の夫だった。
アトレイだけは、決してヒルデガルドを傷つけない、それは前世から変わらない本心である。
「ゆっくりでいいんだ。好きになってくれないか」
「もう好きよ」
「それって、従兄弟としてだろう」
「ええ、今は。でも好きは好きよ。きっとこれからもっと好きになる」
「⋯⋯」
「アトレイ?」
「⋯⋯なんでもいいよ、君に好いてもらえるなら」
アトレイがふいっと前へ向き直り、「行こう」と言って二人は再び歩き出した。
「ダンスは二曲続けて踊るよ?」
「ええ。勿論よ」
ファーストダンスに続けて二曲目を踊るのは、将来を定めた間柄と示すことである。
清々しい覚悟と、初々しい恥じらいと、もう二度と味わうことのなかったはずの感情を胸に抱いて、ヒルデガルドは会場入りをした。
「ええっと、その、似合ってる」
アトレイは、燦めくシャンデリアの明かりと舞踏会の熱気に圧倒されるヒルデガルドに、漸くここで装いを褒めた。
「いま言う?」
「ごめん」
「貴方も素敵よ。私、自分の色を身に着けてもらうのは初めてよ」
「⋯⋯うん」
アトレイはそこで、ヒルデガルドを見下ろし笑みを浮かべた。何度も何度もこんなふうに顔を合わせて、お互い歳を取った仲である。
だがそれももう過去のことで、今、目の前で十六歳のアトレイが、瞳に隠しきれない思慕を乗せて、ヒルデガルドを見つめている。
「アトレイ。ありがとう」
「ヒルデガルド?」
「貴方のお陰で、私、やっと新しい生き方に踏み出せるわ」
いま捧げてくれる愛が、生涯変わらずなんてならないかもしれない。人の未来なんて、誰にもわからないことなのだ。それは、確かな愛を交わしたはずの前世で知った事実である。
もしかしたら、アトレイも同じことを起こすのかしら。
愛する人の裏切りは、もう二度と御免だと思いながら、アトレイならきっと、その時には潔く決別を選んでくれると思えた。
ヘレンを得てから十八年も、ヒルデガルドをそばに置き留めるような、残酷で曖昧な優しさなどは持たずに、きっちり彼らしくけじめをつけてくれるだろうと思えた。
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