第27話
髪を結い上げるのは、久しぶりのことに思えた。
令嬢であるヒルデガルドは、既婚夫人のように髪を結い上げていない。
だが、死に戻ったのは春のことで、初夏の今からほんの少しだけ前のことだ。
結い上げるといっても、ヒルデガルドが馴染んでいたのは、高位貴族の当主夫人らしいきっちりとした纏め髪で、華やかというより気品を表すものだった。
だから鏡に映る自分の姿に、ヒルデガルドは暫くの間、声が出なかった。
ああ、そうだ。クリスフォードと初めて出た舞踏会も、こんな華やぎのある纏め髪だった。
淡いシャンパンゴールドのドレスは、ウエストに
だがそれは、終わってしまった過去のことで、時を戻って生き方を変えた今のヒルデガルドの装いは、これから貴族社会で生きる若き次期当主を清々しく飾っている。
傘下であり親族であるアトレイの生家から贈られた、ドレスと宝飾品。
すっかりお膳立てされてしまった気もしないではないが、同じ女当主として生きるアトレイの母からのエールに思えた。
小柄でやや垂れ目のヒルデガルドを、きりりと引き締めて見せる深いビリジアンは、紺碧色の瞳に合わせて仄かに青を帯びている。
照明に照らされる光沢も、すっきりとしたシルエットも美しい。
露わになった肩口からは、日を浴びたことのない真っ白な肌が覗いている。
琥珀の首飾りと揃いの耳飾りが、子爵家に伝わる逸品であったのは、後になって知ることだった。
アトレイの母が、ヒルデガルドの覚悟を認めてくれたのだと嬉しくなったのである。
それは、ヒルデガルドの代になったときに、親族として、傘下として伯爵家を支えていくという意志の表明でもあった。
「とても綺麗だよ。姉上」
「そう?飾ればそれなりに見えるものね」
ローレンの部屋に舞踏会の装いを見せに行くと、ローレンはすかざす「綺麗」と褒めてくれた。
そういうところがローレンなのだ。もし彼が妻を得られたなら、こんなローレンの一言一言がどれほど妻の心を喜ばせることだろう。
「背中も、凄く素敵だよ」
「恥ずかしい。こんなに肌が出ちゃって
「そんなことないよ。でも僕はちょっと恥ずかしいかな。姉上なのに照れちゃうよ」
こら!可愛いぞ!ローレン!
どうしてくれよう、ローレン。乙女心を
「アトレイの石を贈られちゃったね」
「まあ、そうね。親族繋がりと見えれば良いわ。アトレイの縁談に響くのはいけないもの」
「まだそんなことを言っているの?」
「え?」
ローレンはそこで、すっと真剣な眼差しになった。
限られた命を生き急ぐようなローレンは、聡明であるだけでなく、どこか大人びている。
ふわりと肩に触れる長めの髪も、ヒルデガルドと同じ垂れ気味な目元も、どちらかといえば中性的な見目であるのに、精神は不純物を取り払ったように澄んでいる。
少年の姿に賢人の魂を宿したようなローレンは、時折こんな冷めた表情をする。
「ローレン?」
「姉上。狡い立ち回りをしては駄目だよ」
「ず、狡い?」
「アトレイの覚悟に気づかないフリをしないでほしい」
「ローレン⋯⋯」
「本気なんだよ。アトレイは」
どうやって、ここまで来たのか憶えていない。
ローレンの部屋を出て、廊下を歩いて階段を降りて、確かにそう憶えているのだが、それはまるで現実味を帯びて感じられなかった。
アトレイの覚悟。
アトレイの本気。
その覚悟と本気を酌んだから、アトレイの母は、ドレスを贈ることを許し、自身も琥珀の装飾品をヒルデガルドに贈ったのだ。
「アトレイ。本当にいいの?貴方、それでいいの?折角、自由になれるのに。今度は私たちに絡め取られずにすむのに」
玄関ホールのソファに座り、アトレイの迎えを待つ間、ヒルデガルドはローレンの言葉を反芻していた。
そうだ、アトレイは言ったのだ。
『どんな生き方であったとしても、私は自分で考えて、納得して先を進む。君に心配される必要も、勝手に幸、不幸を決めてもらう必要もないんだ』
彼の人生は、それがどんな選択の先にあったとしても彼自身のもので、そこをヒルデガルドが心配しなくても良いのだと、そう言ったのだ。
アトレイ。貴方を信じて良いの?
私はもう、信じて愛した人に傷つけられるのは怖いのよ。
貴方まで私を裏切るなんてことがあったら、ずっと独り身を通して、もう二度と死に戻りなんて望まない。
黄泉の国に引きこもって、ずーっと冥府の神と一緒にいるわ。
「それは困るかな」
「へ?」
目の前に影が差したと思った途端、耳に届いたその声に、ヒルデガルドは弾かれるように顔を上げた。
「名前、呼んだんだけどな。執事も君に呼びかけていた。その、なんというか、君の心の声が大き過ぎて、どこで声を掛けるべきか迷った」
「え、え、私、何か言ってたかしら」
「アトレイ、本当にいい「わわわわわ」
「わかったわ、もうなにも言わないで」
ダダ漏れの思考は最初から聞かれていた。
ソファに座ったままアトレイを見上げるヒルデガルドに、アトレイは
「アトレイ?」
アトレイの手が、ヒルデガルドが膝に置く右手を取る。やんわり握られた指先に、身体中の神経が集まるようだ。
「ヒルデガルド」
「⋯⋯」
「私の覚悟を、受け入れてくれるかな?」
「アトレイ⋯⋯」
聞きたいことも、言いたいことも幾つもある。
貴方はそれでいいの?
わざわざ親族から伴侶を選ばなくても、貴方に似合う令嬢なら沢山いるわ。
私と添うということは、私の人生に絡め取られて縛られることになる。
もしかしたら、我が子を抱けない、そんなことだって⋯⋯
「全部、承知のことだよ。最後のは、君の悲観的な憶測だろう?もし仮にそうであるなら賢い養子を探し出す」
思考ダダ漏れのヒルデガルドの言葉を、アトレイは全て拾って答えてくれた。
それから、握った手をゆっくり持ち上げ、指先の本当に爪の先に、触れるだけのキスをした。
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