第21話
「アトレイ」
アトレイの琥珀色の瞳に憂いが滲んで見えた。彼が叔父からなにを聞いたのか、どこまで聞いたのか、ヒルデガルドは確かめようとは思わなかった。
一つだけ言えるのは、前に父が言ったことで、ヒルデガルドにアトレイを婿入りさせようという話が、いよいよ現実味を帯びてきたということだろう。
「アトレイ、貴方を犠牲になんてしないわ」
ヒルデガルドが後継者となることが、家族と叔父を交えて定まったとき、ヒルデガルドに課せられたのは、伴侶を得るということだった。
ヒルデガルドには、恐れがあった。
この生でも、子を成せなかったら。
前の生で、ヒルデガルドはクリスフォードの子を成せなかった。
医師はその原因を突き詰めることはできなかった。ヒルデガルドは子を成せないことを除けば、健康体であったから。
クリスフォードとの相性もあったのかもしれない。愛し合っているとばかり思っていたが、身体はそうではなかったのだと。
あの哀しみは時を経ても、薄れはしても消えてなくなることはなかった。
だから今も、ジクジクと胸の奥のそのまた奥に、古傷のように残っている。
婿を取るのはヒルデガルドの子を求めるからで、それは生家の血を後世に残す責任でもある。
「万が一。万が一、子を成せなかったとしたら。私が伴侶を得たとして、それが無駄になることだってあるかもしれないわ」
両親の前で、ヒルデガルドは誰にも言えずにいた心のうちを打ち明けた。
前世の両親とは、いよいよ養子を取らねばならない、そのことを、侯爵家一族から夫が求められるときまで、打ち明けられずにいた話である。
だが、今のヒルデガルドはうら若い令嬢で、まだ両親の庇護の下にいる。今なら、泣き言も心の不安も両親に打ち明けることができた。
「ヒルデガルド。それを言うなら、すべての夫婦が抱える不安と言って違わないだろう」
父は、まだ十六歳の娘が抱く不妊への不安を、受け流すことはしなかった。
「子を残すことは、間違いなく一番の責務ではある。だが、だからお前に婿をと言っているのではないんだよ」
父の瞳には、男親の愛情と当主としての厳しさの両方が見えていた。
「孤独でいる必要はないんだ。執務なら家令も執事も侍従もいる。事務官だって補佐をする。傘下には頼りになる家々は幾らでもいる。そうではなくて、夫はお前だけの家族なんだ」
「お父様⋯⋯」
「家族とは、苦しいときに苦しいと打ち明けられる存在なんだよ。そうでない夫婦もいるだろう。だが私はお前の母に救われている」
父がそう言えば、ヒルデガルドの隣にいた母は父を見つめて微笑んだ。
「順当に行くなら、私たちはお前より先に黄泉へ行かねばならない。お前の家族がたとえ夫だけであっても、お前が独りきりでないのなら、私は安心して死ねるだろう」
前世で父はローレンを失って、後継をなくした家にアトレイを迎え入れた。その後のことなら今も憶えている。両親は、はっきりと安堵していた。
娘は侯爵家で妻の責務を果たせずに、伯爵家では常に当主の命が危ぶまれた。
どれだけ心配を抱えていたのか、目の前の両親に確かめることはできない。
「子を成す成せないと恐れるな」
「お父様、」
「できなかったら養子を得る。お前、いつだか言ったじゃないか、後継なら、傘下から賢い
確かにヒルデガルドはそう言った。そう言って、父に談判したのだ。
「なら心配なかろう」
父はあっさりと言い終えた。
「なにも問題ない」
ヒルデガルドは、その場で婿を迎えることが決まった。だがそれは今すぐではない。
一族傘下貴族に後継がヒルデガルドに替わったことを公表して、デヴュタントを迎えてから縁を探しても遅くはないということになった。
妻として求められる立場から、後継者として伴侶を求める立場になった。
直ぐに縁談の話にならなかったのは、まだ学園に入ったばかりのヒルデガルドに、猶予を与えられたからだ。
「アトレイ。叔父様になにを聞かされたかは知らないけれど、一つだけ貴方には言っておかなければならないわ」
アトレイの顔に翳りが見えた。だからこそ、今度は間違えない。
「貴方は犠牲にならなくて良いのよ。ローレンが望む人生を歩くのよ、貴方だって同じだわ。家の為に家族の為に、貴方には犠牲になって欲しくない。貴方の望む生き方を、今度こそは選んで欲しい」
「今度こそ?」
しまった、前世のことを語ってしまった。
「まあ、そんなところ」
適当に濁してみたが、アトレイはそれを見逃してはくれなかった。
「勝手に決めるな。迷惑だ」
「ア、アトレイ?」
アトレイが怒っている。琥珀色の瞳に朱が差すように見えたのは気の所為だろうか。
「どんな生き方であったとしても、私は自分で考えて、納得して先を進む。君に心配される必要も、勝手に幸、不幸を決めてもらう必要もないんだ」
いつも冷静で、何よりヒルデガルドに優しい従兄弟が本気で怒っていることに、ヒルデガルドはすっかり動揺してしまった。今ばかりは四十の精神はどこかに行って、十六歳のヒルデガルドの心でいる。
「ご、ごめんなさい、アトレイを怒らせるつもりなんてなかったの」
「あ、ああ、いや、そうじゃない。君を怯えさせるつもりじゃなかった」
ごめん。そう言ってアトレイは俯いた。そんなところはまだ十六歳、お互い青い若者だと思う。
「兎に角、君に心配してもらうことなんてないんだ。自分のことはちゃんと自分で決めるよ。両親は私に無理矢理なことを願う人間ではないと、君だって知ってるだろう?」
そう言ってアトレイは、やっといつもの笑みを見せてくれた。
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