第20話

どうしてあの日、別宅に足を踏み入れたのだろう。


 それは、彼女と出会ったあの日から十八年が経って、夫の弔いの迎えてしまってからも、わからないことだった。


 死に戻って改めて考えてみても、あの日の自分の心がわからない。

 ただ、夫の愛をどうして失ってしまったのか、その哀しみに胸の内は埋め尽くされていたのを憶えている。


 子を成せなかった。それが最大の理由なのだろうとわかりながら、子を成せないと愛まで消えてしまうのかと、貴族の愛の脆さに失望したのだ。



 折角、神の采配で、もう一度人生を始められるのだ。いつまでも過ぎてしまった日々に囚われて、大切な時間を費やすのは勿体ないことだと思う。


 大切な時間と考えて、ヒルデガルドはそこでふと思いついた。


「お母様。夕陽をローレンに見せてあげましょうよ」


 春の盛りの夕暮れは、昼間の日射しに温められた空気が心地よかった。頬に感じる柔らかな風、何より母が丹精込めて育てた花々が夕焼け空に照らされるさまを、ローレンに見せてあげたいと思った。


 直ぐに母の侍女が邸に戻り、ヒルデガルドもその後を追った。


 大階段を足早に登り、廊下の最奥、ローレンの部屋を目指した。


「ローレン、ただいま。調子はどう?」

「姉上、おかえりなさい」


 ヒルデガルドは階段を一気に登った勢いもそのままに、ローレンのベッドの脇にひざまずいた。


「体調は?」

「すこぶる元気」

「本当?」

「本当だよ」


 本当にすこぶる元気なことなんて、月に数えるほどしかないだろう。


「母上と姉上を、ここから見てたんだ」


 ローレンの部屋の窓からは、庭園が見下ろせる。


「お日様が沈んでいくわ。お母様の花を茜色に染めているの。見たくない?」

「見たいにきまってるよ」


 後ろに控えていた力自慢の護衛騎士がローレンを抱える。

 恥ずかしいなと言いながら、ローレンは彼にしっかり掴まった。


 すらないよう気をつけながら階段を降りると、執事まで一緒になって玄関ホールを出た。


「姉上、空が燃えて見える」

「本当だわ」


 健康なヒルデガルドも、ゆっくり夕暮れの空を眺めるなんてことは滅多になかった。

 日々は多忙であったし、朝を迎えることが約束されている日常で、季節の移ろいや日が昇り日が沈む、そんな繰り返される事象に気を取られることは少なかった。


「ローレン」


 母が駆け寄って、ローレンの側に立つ。いつの間にか父まで外に出て、家族四人、なんてことのない春の夕暮れを眺めた。


 美しい空だった。母が育てた花の香りが風に乗って、ローレンはそれに気がついたようだった。


「母上の庭は綺麗だな」

「本当よね、ローレン。私もそう思うわ」


 庭がこんなに人の心を癒すのなら、ヒルデガルドもガーデニングをしてみようかと思った。そうしたら、花を育てることが上手かったヘレンに心を惹かれた夫の気持ちも、少しはわかるのかもしれない。


「太陽だって沈むんだ。だけど太陽は、また昇る」


 ローレンが心のうちを吐露するのを、父も母もヒルデガルドも、切なさに虚しさが混じり合う、そんな気持ちで聞いていた。


「ローレンは何がしたい?何になりたい?」


 ヒルデガルドは聞いてみた。


 沈む太陽が最後の輝きを放つように、赤々とローレンの頬を染めている。ローレンは、眩しさに目を細めながら小さく呟いた。


「天文学者になりたいんだ」


 寝台の上で、窓から空を見上げるしかないローレンは、空に刻々刻まれる惑星に心惹かれるのだという。


「年に数回だけ目で見られる星があるんだよ」

「何?それは」

「水星だよ。太陽の一番近くにいる星なんだ。いつも太陽の光に紛れて見えないんだ。それが年に数回だけ、朝日が昇る直前とか、夕日が沈んで夜の帳が降りる一瞬だけ姿を見せてくれるんだ」


 ローレンが生き生きと語るその姿に、ヒルデガルドは覚悟を決めた。



「ヒルデガルド」


 声を掛けられ振り向けば、アトレイは難しい顔をして立っていた。


「どうしたの?アトレイ。難しい顔をして」


 そのままを問いかけると、アトレイははっきりと眉を寄せた。


「聞いたよ」

「なにを?」


 アトレイはそこで周囲を見回した。


「ちょっと向こうに行かないか」


 人の耳目を用心深く避ける様子に、アトレイの慎重さが表れている。


 朝の学園の廊下は騒がしい。そんな喧騒から外れて、昇降口のそばに移動した。


「何かしら」

「ローレンと、」

「ああ。叔父様から聞いたのね」


 あれから両親と、最終的にはローレンも交えて話し合った。ローレンの人生に関わる大切なことであったし、ヒルデガルドの生き方も大きく変わる。途中からは、アトレイの父である叔父も一緒に話し合った。


「ローレンは後継から降りるわ。私が当主になるの」

「ヒルデガルド、君⋯⋯」

「ねえ、アトレイ」


 アトレイはヒルデガルドを見つめている。


「私はね、あの子の限りある命の時間を、思いっきり生きてほしいの。あの子ならできるわ。そうではないわね、あの子だからできるのよ。ローレンの優秀さを貴方も知っているでしょう?」


 決して先は長くはないだろう、そのことを理解しながら、両親はローレンを後継に定めていた。それが父と母の希望的観測でありでもあったのだろう。

 ローレンもそれを受け入れて、彼は既に後継教育を受けはじめていた。


 家族が揃って夕陽を見つめたあの日、ヒルデガルドは晩餐の席で話したのだ。

 ローレンと後継を替わりたい。ローレンは才能を活かして望む道を生きるべきだ。


 それが女伯爵ヒルデガルドの、道が開かれた夜だった。





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