第19話
放課後になっても、ヒルデガルドはアトレイの言葉を忘れることができずにいた。
無性にローレンに会いたいと思った。
授業中、教師の言葉に頷きながらも、頭の中にはローレンがいた。
今日一日をローレンが大切に生きるのなら、ヒルデガルドはそんなローレンを大切に見守りたい。
「今日は何をしていたのかしら」
独り言にしては大きな言葉にも、既にこのクラスでは認識済みであるから、誰も何も言ってこない。
ローレンを聡明だとアトレイは言ったが、それはその通りだった。
ローレンは賢い。
健康な身体であったなら、間違いなく優れた当主となって、領地領民の為に貢献しただろう。だがヒルデガルドが思うのは、彼なら学者にでもなれたのではないかということだった。
病弱な身体がそうさせているのだが、彼は身体を存分に動かせない代わりに、思考は伸び伸びと成長させて、ヒルデガルドでは到底理解出来ない高度な学問を修めている。
父はローレンのために、王内でも著名な学者を教師に頼んで、いつ命を閉じてもおかしくないローレンに、学を授けさせている。
ローレンが蓄えている知識とは、誰かに伝授するなり形あるものに利用しない限り、表に現れることはない。ローレンがその身を失ってしまったなら、ローレンがどんな知識を得ていたかなんて知り得ないものばかりだ。
もしもこの生でローレンにも可能性があるのなら、ヒルデガルドが彼を自由にして、別の生き方を選ばせることができないものか、そんなことを考えた。
初めからヒルデガルドが後継者となってローレンを後継から外し、そのかわり、彼の本当に望む生き方を選択させることもまた、方法の一つに思えた。
神の与えた寿命を変えられずとも、生き方なら変えられる。
そんなことを考えながら邸へ戻ると、門扉を抜けて玄関へ向かう途中、庭園に人影があることに気がついた。
「お母様だわ」
もう夕暮れも迫っているというのに、母は庭園にいて花の手入れしているようだった。
「ここで降ろして頂戴」
御者との仕切りとなる硝子窓を軽くノックすれば、御者は間もなく馬を止めてくれた。
玄関まではまだ距離はあるが、ヒルデガルドはそこで降ろしてもらった。
「ルイーズには、庭園にいると伝えてくれる?」
そう彼に頼んでから、ヒルデガルドは庭園を歩く。
母が花を摘んでいる。きっと晩餐の食卓に飾ろうと思ったのだろう。
母は花を育てることが好きで、貴族夫人には案外そんな夫人は珍しくなく、自ら庭師と一緒に庭の手入れをする。
夕暮れ時の庭園に母の姿が浮かび上がって、それはヒルデガルドの原風景のひとつになっていた。幼い頃からこんな姿を幾度も目にしたのである。
「だからだわ」
ヒルデガルドはそこで得心がいった。
こんな風景を、前の生で見たことがある。だがそれは、生家の庭園ではなかった。
クリスフォードは、妾を郊外に屋敷を与えて住まわせていた。可怪しなことに、クリスフォードはそのことをヒルデガルドに隠さなかった。
彼はそれで、ヒルデガルドが悋気を起こさないとでも思ったのだろうか。オースティンを与えられたヒルデガルドが、何をされても文句を言えないと、そう思ったのだろうか。
ヒルデガルドはある日、茶会に招かれた帰り道で、妾の屋敷がこの区画だと思い出した。住所は頭に入っていた。執事からも報告を受けていたし、何よりクリスフォードは何も隠さなかったのだ。
屋敷は小さなもので、平民が住まうには少し大きいかという程度、それでも隅々まで手入れをされている、そのことが一目でわかった。
門扉も奥に見える屋敷の壁も、綺麗に塗り直されて、御伽噺の中にあるお屋敷のように思えた。
門番のいない門扉の脇に馬車を留めて、ヒルデガルドは歩いて中に入った。入って直ぐに庭園があって、そこで花の手入れをする若い女性の姿が見えた。
侵入者に気づかぬほど、彼女は作業に没頭している。
だが、ヒルデガルドが近づいて、小石を踏む音が聞こえたのだろう、女性はそこで顔を上げてこちらを見た。
「ほっぺに泥が付いていたのよね」
ヘレンは頬を汚しながら、一所懸命ガーデニングに励んでいた。彼女は刺繍は壊滅的だったけれど、花の手入れは抜群に上手かった。
生家の子爵家は経済的な余裕がなく、幼い頃から母親と庭仕事をしていたことを聞いたのは、もっとあとになってのことである。
四つ年下の妾は、金色の髪をお日様に照らされて、榛色の瞳を大きく見開きヒルデガルドを見つめた。
びっくりしたのだろう。庭園に本妻が乗り込んでくるなんて、思いもしなかったのだろう。あどけない顔をして、ヘレンは慌てて背筋を伸ばした。それから、
「は、は、はじめまして。奥様!」
おおよそ教育を受けた貴族令嬢とは思えない、大きな声で挨拶した。
花に埋もれる彼女の姿に、ヒルデガルドが泣きたくなるような郷愁を覚えたのは、いま目の前で庭仕事をする母の姿とヘレンが重なってしまったからだ。
あれからヘレンとの奇妙な関係が始まったのだ。
珍しい花が咲けば、夫経由で届けられた。ヒルデガルドも夫が彼女の下に行くときは、菓子や手ずから刺繍をした小物を持たせたりした。何かを贈られたら御礼を贈る、相手が誰であったとしてもそれがヒルデガルドのスタンダードだった。
友人なら他にもいたし、妾の存在を許したというのとも違う。夫を共有する存在に、心地よさなんてものはなかったのに、気がつけばクリスフォードの弔いのあの日まで、珍妙な関係が続いたのだ。
「お母様!」
ヒルデガルドは母に声をかけた。
「まあ、ヒルデガルド、お帰りなさい。もうそんな時間だったのね」
庭仕事に没頭していたのだろう。母の頬は紅く染まって右側に泥がついていた。
何故なのか、その姿にもう会えない珍妙な友人が思い出されて、ヒルデガルドは泣きたくなってしまった。
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