第22話
「私が言いたいのは、そうではなくて、」
アトレイの憂いとは、別のところにあるようだった。
「君はどうなんだ?」
「え?」
「君こそ、どうなんだ」
「アトレイ⋯⋯」
「君こそ、家の為に、家族の為に、自分の幸せを捨てている。そうではないか?」
アトレイは、先ほどまでの険しさをなくして、今は案ずるような眼差しになっていた。
「君の幸せは、どこにあるんだ?」
「それが貴族だわ」
「都合の良い時だけ貴族を持ち出すな」
そこでアトレイはヒルデガルドに手を伸ばし、頭をぐしゃりと撫でた。
「な、なにするの?」
髪が乱れるより先に、心のほうが乱された。
「ままならない生き方に、貴族の身分を免罪符にする必要はないんだよ」
「アトレイ」
「君だって幸せになっていいんだよ」
「アトレイ。私、幸せよ」
クリスフォードのいなくなった色を失った世界から、家族がいる世界に蘇った。
今生では、夫とは道を違えてしまうけれど、彼はこの人生でこそ初めからヘレンを得ることができるだろう。
ヒルデガルドは自分の幸せよりも、誰かの幸せを邪魔する存在にはなりたくなかった。
もう間違えずとも済む。
両親もローレンもいてくれる。
それだけで幸せだと思った。
「なら、もっと幸せになれよ」
「え?」
「君ならなれる。まあ、今も十分元気だけどね」
それは大きな声で独り言を言うからだろうか。それとも、授業中に激しく頷くからだろうか。
「君には笑っていてほしいんだ」
そう言ってアトレイは、自分で乱したヒルデガルドの前髪を、指先で
「ア、アトレイ」
男性に触れられるのは久しぶりで、ヒルデガルドは本心から乙女の気持ちで恥ずかしくなった。
「行こうか。授業が始まってしまう」
上手くはぐらかされたような気もするが、確かにそろそろ教室に入らねばならい。
「なあ、ヒルデガルド」
階段を二人並んで上がりながら、アトレイが話しかけてきた。
「なあに、アトレイ」
「デヴュタント、どうするんだ?」
そういえば、と思い出した。ヒルデガルドは今年、デヴュタントを迎える。
「⋯⋯なんにも考えていなかったわ」
「お前って、いっつも自分が後回しだな。言った通りだろう?」
君からお前呼びに変わって、こういう時のアトレイは、親戚で幼馴染で幼い頃からの気のおけない間柄となる。
「誰もエスコートしてくれなかったら、私が務めてやるのも
「なあに、その勿体ぶった言い回し。『吝かでない』」
ヒルデガルドは、アトレイの声音と口ぶりを真似て言う。
そうだった。前の人生では、デヴュタントはクリスフォードにエスコートされたのだ。その頃には既に、ヒルデガルドはクリスフォードと婚約していた。
もう、そこからして二人の人生は確実に大きく道を変えたのだと、ヒルデガルドは改めて思った。だから、アトレイが無言でいることには気がつかなかった。
「ええ?また?」
夕刻、邸に戻ると、渋顔の父に呼び止められた。
「お前が後継になることは、まだ広まっていないからな。暫くは仕方あるまい」
相変わらず釣書が届いていた。前の分は父に頼んで断ったが、どこの家の誰からだなんて確かめもしなかった。
弟の体調が整うまではと、有りそうで無さそうな理由をつけて断った。
もしかしたらその中には、同じ学園に通う子息もいたのかもしれない。
「前と同じ理由でお断りしてくださいな」
「前と同じ家から届いたんだ」
「は?」
どうやら、先日、断りを入れた家から、再び釣書が届いたという。
「ちょっとくらい、見てみないか?」
「はあ?お父様、見てどうするの?断る一択なんですよ。見るだけ失礼だわ」
「思い出に」
「そんな思い出、いりません」
嫁入りするとばかり思っていた娘に、どこか未練があるのだろうか。父は釣書を見てみろと勧めてきた。
「それよりも、私のほうが釣書を送らなくてはいけないのでは?」
「そんなことあるか。婿入りを頼まれるならわかる。お前を売り込むだなんて、そんなことはさせないぞ」
「売れないかも」
「そんなわけがあるか!引く手
親の欲目で、ヒルデガルドは可愛い可愛いと育てられたのだ。実際は、小柄なところは可愛い括りにギリギリ入るかもしれないが、それだけだ。
ふわふわした金髪でもなければ、淡い瞳の色でもない。
焦げ茶のうねる髪も紺碧色の瞳も、意思の強さが前面に出て、瞳がちょっと垂れ気味なのに助けられている。
こんなヒルデガルドであったのに、クリスフォードは大切にしてくれた。
最初の数年は。
まあ、ヘレンを得てからも奇特な彼は、ヒルデガルドを「奥さん」と呼んで、冷遇なんてことはしなかったが。
きっと、妻というよりパートナーと考えを改めて切り替えたのだろう。そこに愛はあるのか?
「貴族名鑑を見直さなければいけないかしら」
「ヒルデガルド。自分を安売りするな」
「私、商品なのですよ。女伯爵として見積もられるのは私のほうです」
「お前は賢い。馬鹿な婿など要らん」
こうして父と話しているうちに、再送されてきた釣書のことは有耶無耶になったのだった。
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