第9話

「意義深い時間だったわ」


 午後の授業も大変有意義なものだった。


 一般科でこうなのだから、これが領地経営科であったなら、どれほど実践的な知識を学べたことだろう。

 返すがえすも、あとひと月早く死に戻りたかったと思う。だとしたら迷わず「領地経営科」を選択した。


 まあ、そうなれば、夫にもひと月早く亡くなってもらわねばならなかったし、もし先にヒルデガルドだけでも、ひと足先に死していたなら、夫に葬儀の手を煩わせることになっただろう。


「まあそうだったら、ひと月だけでも旦那様はヘレンと一緒になれたでしょうね」


 そう思うと、頼んだだけで死に戻れたのだから、もっと早く神に頼むべきだったと考える。


 大方の中年女性の特徴として、思考とは連鎖する。

 今思ったことの端っこから次の思考が頭に浮かぶ。そのままつらつら浮かぶまま話題は移り、思うまま頭の中の思考は移ろい続けて、殿方は大抵途中でついてこられず会話から脱落する。


 ヒルデガルドの脳内会話は、しばらくあちこち連鎖を続けていたが、しっかり者のヒルデガルドであったから、最終的には元に戻った。


「領地経営の実践かあ」


 実践なら既に、侯爵夫人として多少は熟してきた。

 勿論それは夫の補佐で、ヒルデガルドはもっぱら家政に勤しんでいた。傘下の夫人らを取りまとめたり、王族も招く夜会や茶会を催したり。


 夫の執務には補佐官が数人いたから、彼らと一緒に会計帳簿をつけるのもヒルデガルドの仕事だった。


 要は、なんでもやった。夫人と名のつく事務員だった。

 だが、家令に執事、義息子のオースティンと頭を寄せ合い相談しながら侯爵家の内政を熟すのは、それなりに充実した毎日だった。


 つい昨日までの日々を思い出してしまうのは、仕方のないことだろう。まだこちらに来て漸く半日を過ぎたところだ。


「もう、あそこに帰ることはないのね」


 ヒルデガルドは、侯爵家でのあれこれを鳥瞰的に思い浮かべた。空飛ぶ鳥になったつもりで、教室の窓から空を眺めて呟いた。


 クラスメイトたちは若者の順応力を発揮して、癖が抜けず独り言を堂々呟くヒルデガルドに、もう午後には慣れていた。


「ふふ、不思議なものね。もう戻れないと思うと懐かしくなる。そんな楽しいばかりの人生でもなかったのに」


 今も、詩歌をそらんじるように、窓の外を眺めながら朗々と語るヒルデガルドに、クラスメイトは疑問を抱くことはなかった。


「目的を見失ってはいけないわ」


 センチメンタルになっていたヒルデガルドは、そこで思い出す。


 死を願ったのは自分である。

 前の人生でやり残したことを考えたとき、この先を生きる必要を感じなかった。


 ヒルデガルドの後悔は、全て過去にあった。後悔というのだから未来にあるはずはないのだが、夫を弔ったことをきっかけに自分の人生を振り返った。


『恥の多い生涯を送って⋯⋯なんたら 』

 東の国の文豪は、作中でそんなことを記していたが、あれはなんと言ったかしら、『貴族失格』だったかしら。


 ヒルデガルドは少しばかり感傷的になっていたから、物事全般を文学的に捉えはじめた。


 気がつけば、窓の外をみつめたまま、机上を片付ける手が止まっていた。


「いけない。帰らなくちゃ」


 クラスメイトの大半は既にいなくなっていた。生家の馬車は、もう迎えに来ている頃だろう。


「私の帰る場所は、あそこではないわ。ローレン、待っていてね。姉は今すぐ貴方のもとに帰るから」

「凄い宣言だね。帰宅するだけなのに気合いがみなぎっているよ」


「あら、アトレイ。まだ残っていたの?」


 いつの間にそこにいたのか、アトレイが鞄を手に立っていた。


「うん、君がエラい気張って帰りの支度をしていると思ったら、なにやら諳んじはじめたからね。放って帰る訳にはいかなかった」


 ヒルデガルドの様子に不穏なものを感じたのか、アトレイはそんなヒルデガルドを窺っていたようだ。


「帰ろう」


 アトレイと並んで廊下へ出るときには、教室にはもう誰もいなくなっていた。



「なあ、ヒルデガルド」

「何かしら、アトレイ」

「もう少し静かに授業を受けられないか」

「は?」


 アトレイの言葉に、ヒルデガルドは立ち止まった。


「いや、喧嘩を売りたいわけじゃないよ、ごめん。さあ、行くよ」


 売られた喧嘩なら買ってやろうと、やる気満々だったヒルデガルドを、アトレイは短い謝罪の後に「ほら」と言って促した。


「君、ずっと何か話してたよ」

「ええ?そお?」

「うん。大した事じゃないんだけれど、何だったかな、『わかります、わかります』って言って大きく頷いて、それから『ああ、そうですわね、確かに確かに』って言ってメモしてたよ」


 ヒルデガルドは、自分の独り言には気がついていないから、教師の説明することにいちいち反応を返す自分にも気づいていない。


 家令も執事も高齢で、大抵、みんな口々に何か喋っていたから、侯爵家ではそんなことは日常だった。オースティンも快活な質であったから、打てば響く会話を交わしたものだ。


「君、あだ名ついてたよ」

「まあ、あだ名?」

「頷き令嬢」

「はあ?」

「先生の説明に、ウンウン激しく頷いていたからじゃない?」


「まあ。心外ですわね。そんなこと当然のことですわ。有難い知識を御教授頂いて、無反応でいられる神経を疑いますわね」


 そこでヒルデガルドは扇を取り出し口元を隠して、侯爵夫人の貫禄で不快の意を表した。

 百戦錬磨の貴族夫人に鷹揚にあしらわれたアトレイは、若干涙目になった。


「すみません」

「謝罪を受け取りますわ。以後お気をつけ遊ばせ」

「⋯⋯」


 十六歳の身のうちに四十一の魂を宿すヒルデガルドは、学園なんて小童こわっぱ共の集まりなど、つま先で容易くあしらえるものだった。




 

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