第8話

「あれ?ヒルデガルド、もういいの?お腹、空いてなかったの?」


 アトレイが心配そうな顔でこちらを見る。


 ヒルデガルドは二十数年ぶりの「学食」に、胸を小躍りさせていた。

 学生食堂とはいえ、貴族の子女、時には王族も通う学園である。食堂のメニューは、先ずは目から楽しめた。


 ここに絵師がいたなら、麗しい静物画を幾枚も描くことができただろう。タイトルは「学食」かな。


「ちょっと。もう」


 艶々と脂の乗ったポークソテー。

 ソースは赤いデミソースで、上からホワイトソースをプラスして、赤とホワイトの奏でるソースのハーモニー。


 ちょとクドいぞ。

 これはキツイぞ。


 ヒルデガルドは、脂身の甘さが魅力のポークソテーを、一口食べて美味いと思った。

 二口目も美味かった。

 三口目あたりから、クドいかなぁと思い始めて、四口目で、もう当分肉はいいかな、と思う。


 脂がもたれる。ソースがクドい。

 野菜でバランスをとろうかと思って食べた人参のグラッセは、たっぷりバターと蜂蜜を絡めたものだった。

 お口直しでお口をやられる。


 これが十代の食事かあ。

 侯爵家での食事は決して粗食であった記憶はないが、考えてみればヒルデガルドの食卓とは、素材の滋味を味わうシンプルなものだった。


 パンはドライフルーツを練り込んだライ麦パンを薄く切って、そこに塩味を少し強めにしたフレッシュバターを添える。


 生ハムがあれば、後はスパイスの黒胡椒だけで十分だし、ライ麦は噛めば噛むほど味わいがある。


 パン一つ取ってもこうなのだから、スープもメインディッシュも同様で、少量でもそれぞれの持つ味わいを十分に堪能できた。


 因みに、デザートだけはこってり派のヒルデガルドは、バタークリームをたっぷり巻き込んだロールケーキが大好物であった。


「オースティンに可哀想なことをしていたのかしら。でもあの子、毎食美味しそうに食べていたわよね。旦那様も⋯⋯」


 夫も同じものを食していたが、ヒルデガルドと食の好みは似ていた。


「そこだけは気が合ったわね」


 今更、思い出す亡き夫との何気ない日常。まあ、自分も亡き者になってしまった身であるからで、大して悲壮感は湧かない。


 ぶつぶつ独り言を呟くヒルデガルドを案じたのは、アトレイだった。


 アトレイは正真正銘、現役の若人わこうどだから、ポークソテーはソースごと完食だ。


「御馳走様」


 料理人に申し訳ないと無理して食べていたが、そのうちカトラリーを持つ手が勝手にボイコットし始めて、終いには、お口もボイコットして唇を噛み締めた。とうとうそこで、これ以上はムリと諦めた。


 心做し胃が痛い。

 若者向けのお食事は、身体は若者の筈であるのに記憶が中年夫人のヒルデガルドのメンタルに作用して、胃もたれを引き起こした。


 そんなヒルデガルドをアトレイがじっと見る。


「アトレイ。足りなかったの?」

「いや⋯⋯そうじゃない」

「残して御免なさい」

「私に謝られても困るかな」

「ほら、ほとんど食べてないのよ、端っこ以外は手付かずだから、貴方食べる?」


 ヒルデガルドは、幼子に肉を切り分ける母の気持ちで、ポークソテーの手付かずな部分を小さく切り分けた。

 オースティンにもこんなふうにして食べさせたものだ。あの子はマナーはしっかり身についているのに、こんなふうに庶民っぽく手ずから食べさせると喜んだ。


「ふふ」


 義息子の幼い頃を思い出して、つい懐かしさから笑みが漏れた。笑みを浮かべたまま、ヒルデガルドは切り分けたポークソテーをフォークで刺して、


「はい、あ~ん」


 向かいの席に座るアトレイに、あ~んした。


「⋯⋯」


 アトレイは、多分そんなことを、生まれてこのかたされたことが無かったのだろう。アトレイだけではない。貴族の子女は大体みんな、あ~んしない。


 食の細いローレンに、スプーンで口元まで運んであげるのが日常だったヒルデガルド。あ~んは呼吸するのと同じくらい、自然なことだった。


 困惑のあまり目の焦点が可怪しいアトレイだったが、


「あ、ああ」


 と言って我に返ると、ぱくりとフォークにかぶりついた。


 良し。なにも問題ないようだ。

 ヒルデガルドはオースティンもそうやって育てたから、疑問なんて湧かなかった。


 そういえば、夫と結婚したばかりの頃に、夫もアトレイ的な反応をしていた。だが、やはりそれは一瞬のことで、直ぐにあ~んを受け入れた。


 あの日、亡くなった朝だって、ヒルデガルドがフォークに刺した真っ赤なトマトをあ~んしたのだ。


 夫の弔いをしたのは、昨日の今頃だった。

 亡くなって今日で四日しか過ぎていない。自分も死んでしまったからか、それとも死に戻りしてしまったからか、夫が遠い人に思えてくる。


 愛を傾けてはもらえなかったが、情なら互いにあった筈だ。少なくとも、嫁いだ最初の数年は、当たり前の夫婦だと思えていた。


 懐かしさはどこか切ない感傷を滲ませて、ヒルデガルドは小さく笑った。きっとその笑みは、哀しそうに見えただろう。


「ヒルデガルド」


 アトレイに名を呼ばれて、ヒルデガルドは過ぎた思い出から引き戻された。


「どうしたの?アトレイ」

「足りない」

「え?どれ?ポークソテー?それとも人参のグラッセ?」


 アトレイは、真顔のまま「ポーク」と言った。


「お安い御用よ」


 ヒルデガルドは、ローレンやオースティン、時々夫を思い浮かべてソテーを切る。

 それをフォークで刺して、アトレイの目の前にそっと伸ばした。


「あ~ん」


 アトレイは、ぱくりとフォークに食らいついた。




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