第10話
「それでね、ローレン。教師の皆様の素晴らしさと言ったら⋯⋯」
邸に帰ったその足で、ヒルデガルドはローレンの部屋へと直行した。
階段を勢いつけて上がる足の筋力。息切れを知らない若々しい身体に感嘆しながら、最後は一段飛ばしで軽々登りきった。
後を追う侍女が付いてこられず、背後からはあはあ息が聞こえたが、ヒルデガルドの歩みは止まらない。
「誰かに会うのにこんなに胸が弾むなんて。久しぶりだわ、いつぶりかしら」
制服のスカートがふわりと揺れて、ほっそりとした足が露わになるのも構わずに、
「ローレン!」
ローレンの部屋の数メーター手前から大声でローレンを呼ぶ。
ローレン、ローレン、ロー⋯⋯レン⋯⋯
廊下の奥にヒルデガルドの声が木霊した。
「ローレン!只今帰りましたわ、元気にしていた?」
元気なのはヒルデガルドのほうである。
「姉上、お帰りなさい」
あんなに面倒だとか、行かなくて構わないとか言っておきながら、楽しそうに帰ってきた現金な姉を、ローレンは笑顔で迎えてくれた。
「ローレン。体調は?」
「姉上の顔を見たら元気が出た」
「まあ。では明日からずっと貴方の横に張り付いているわ」
横になっていたローレンの側に寄って、ヒルデガルドは
顔色はそう悪くは見えないが、多分、日中はずっと伏せっていたのだろう。
ローレンは幼い頃から身体が弱い。何が原因なのかもわからない。虚弱な為に些細なことで熱を出し、熱が出ると何日も下がらない。そのまま数日寝込むことも少なくない。
ローレンの弔いの日のことは、十五年経った今でも忘れられない。あの日は雨が降っていて、ヒルデガルドは無気力のあまり傘も差せずに涙に濡れた。
あの時、傘を差してくれたのは、夫だったのかアトレイだったのか、それすら憶えていない。
夫の葬儀には泣けなかったヒルデガルドは、ローレンの葬儀の翌日には寝台から出ることが出来なかった。
元気そうであるが色のない顔をして、具合が良くないのだろうか。なのにローレンはヒルデガルドを見て、嬉しそうに笑みを向ける。
「今日習ったことはね⋯⋯」
ヒルデガルドは、授業の様子をしばらく話していたのだが、そこで学食のことを思い出した。
「今日のメニューはポークソテーだったの」
「そうなんだ、美味しかった?姉上」
「美味しかったわ。最初の三口は」
「最初の?」
「ええ。四口目からは胃にもたれてね、アトレイにあげたのよ」
「ふうん」
「付け合わせのグラッセまでこってりだったわね」
「ねえ、姉上」
先ほどまで会話が弾んでいたのだが、気の所為かローレンの声が低い。
「あ~んは駄目だよ」
「!」
「あ~んしてないよね」
「⋯⋯し、してないわ」
この日、ヒルデガルドは生まれてから何度目かの嘘をついた。
可怪しいわね。ローレンの目が、ちょっと据わって見えた気がするんだけれど。
ほんの一瞬、二人の間に気まずい空気が漂った。
だが、やはり気の所為だったらしく、ローレンは直ぐににこにことヒルデガルドを見つめていた。
「ローレン⋯⋯」
名前を呼べるだけで、こんなに胸が温まる。この子が生きている。それだけで、人生が色鮮やかに感じられる。
ローレンに残された時間を一緒に生きよう。もし、もう一度だけ神様に願いを聞いてもらえるなら、次に生まれてくるときもローレンの姉になりたいと思う。
「ローレン、疲れたでしょう。また後で来るわね」
ヒルデガルドはそう言って、ローレンのおでこにキスをした。ローレンからは、仄かに汗の混じる石鹸の香りがした。
「お母様」
ローレンの部屋を出て階下に降りると、夕方の庭園で花を愛でていた母が戻ってきた。
「排除済みよ」
「まあ、それは良かった」
母はまるで天気の話をするように、なんてことないふうにヒルデガルドに結果を知らせた。
朝、ヒルデガルドが母に伝えたのは、最近雇ったと思われる使用人が、邸内に活けた花を抜き取っているのを見かけたからである。
紹介人に何を握らせたのか、伯爵家に潜り込むだなんて命知らずだろう。
年端もいかない少女に見えたが、あれは三十路に近いだろう。
童顔に恵まれて、あどけない素振りで十代を装って、貴族の家に潜り込んでは、ほんのささやかなものを盗み取る。
高価な金品でないからバレることはない。
誰かに見咎められたら、「枯れた花を抜いていた」と言えば良い。
だが、他家ではそれで通用しても、我がラドモンド伯爵家ではそうはいかない。
伯爵家に上手いこと雇用された使用人は知らなかったのだろう。
この家は、活けた花の手入れは全て母が行っている。手桶を持って水を替えて、勿論枯れた花を抜き取るのは母の仕事なのである。
「お母様が育てる花は、貴重なものも多いから、枯れ花から種子でも採ろうと思ったのかしら。それとも豪胆に、切り花として裏街で売ろうとしたのかしら」
「年老いた母を抱えて難儀していると言って泣いてたわ」
「エプロンのポケットには?」
「早咲きの花の種子が」
十代と皆を騙し切った
母が、後味が悪いと父に頼んだために、重い罪には問われないらしい。花一つといっても貴族の庭。家を間違えていたなら、彼女は明日にはお星さまになれただろう。
死に戻って帰ってきても、父も母も変わらず善良な人物だった。
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