その背中を追いかけて 少年が夢を見た日
千代瀬
第1話(完結)
辺境の小さな村に生まれ育った俺――レオンの一日は、だいたい体を動かして終わる。
朝は畑、昼は森で薪拾い。
剣術は木の棒でのごっこ遊びがせいぜいで、魔法の才なんてない。
けれど元気だけはあるし、誰かが困っていれば手は貸したい――そんな、ごく普通の村の少年だ。
「レオン! 森に薬草取りに行くわよ!」
勢いよく戸を開け放って現れたのは幼馴染のリナ。
炎の魔法の素質があるこの村唯一の才女で、勝ち気で、ちょっとばかりワガママ。
村の大人たちに褒められて育ったせいか、いつも胸を張っている。
「また勝手に決めて……今日は畑の手伝いが――」
「細かいことはいいの! どうせ体動かすの好きでしょ? ほら、早く!」
俺がため息をつくのを待たず、彼女は手を引いた。
結局、こうして振り回されるのがいつもの流れだ。
◇
村を出て少し歩けば、もう深い森。
昼でも木々が陽を遮り、涼しい影が道に落ちている。
葉の隙間から差す光が土にまだら模様を描き、鳥の声が遠くで揺れた。
「薬草は入口近くにもあるんだって。だから奥に行く必要は――」
「入口のはもうほとんど摘まれてたでしょ? 少しだけ奥を探しましょ!」
こうなったリナは止まらない。
俺は肩をすくめ、後を追った。
――ガサリ。
茂みが不自然に揺れ、空気がぴんと張りつめる。
俺とリナは同時に足を止めた。
「……風じゃない」
「レオン、後ろ!」
振り向くと、灰の毛並みと赤い目の狼が飛び出した。
普通の獣より一回り大きく、肌がざわつくほどの魔力をまとっている。
魔物だ。
俺は反射的に木剣を構えた。
腕にずしりと衝撃が走り、膝が折れそうになる。
遊びで覚えた構えなんて、押し流されるだけだ。
「下がって!」
リナが右手を掲げる。
空気が熱を帯び、掌に火花が弾けた。
炎の塊が狼へ走る。
轟、と熱気が巻き起こり、狼は唸って後退する。
だが――
「まずい、勢いが強すぎる!」
火は制御を外れ、枯葉へはぜた。
リナが慌てて魔力を引き、炎は消えたが、その瞬間に狼が低く身を沈めた。
狙いは、今もっとも隙だらけのリナ。
「リナ!」
考えるより先に、体が動いた。
俺は彼女の前に飛び込み、狼の体当たりをまともに受ける。
背中から地面に叩きつけられ、肺の空気が抜けた。
視界が白く跳ねる。
「レオン!」
「……っ、平気、だ。立てる」
震える足に力を込める。
勝てるはずがないことなんてわかっている。
それでも、ここで倒れたらリナがやられる。
胸の奥で、ただそのことだけが燃えていた。
木剣を握り直し、唇を噛む。
狼が唸り、爪が土をえぐる。
俺は一歩、前に出た。
――その瞬間、風が切れた。
影がひとつ、俺と狼の間をすべり抜ける。
鋼の鈍い閃き。
遅れて金属が擦れる音が耳に届き、狼は短い悲鳴もなく崩れ落ちた。
俺の前に立っていたのは、見知らぬ若い男だった。
旅人のような軽装に、よく使い込まれた片手剣。
瞳は驚くほど静かで、余計な感情の波がない。
「怪我は?」
短い声。
俺は慌てて頷き、リナを振り返る。
彼女も息を荒げながら、必死に「大丈夫」と答えた。
「あ、あの、助けてくれて――」
「礼はいい。通りかかっただけだ」
男は剣についた血を一振りで払い、鞘に収める。
踵を返し、森の奥へ歩き出した。
「ま、待ってくれ! せめてお礼を――家で、何か――」
「気にするな」
足を止めず、男は短く言った。
そして、ほんの一拍あとに、振り向かずに続ける。
「……強くなれ」
それだけを残し、影は木々の間に溶けていった。
風が止み、森の音が戻ってくる。
俺は呆然と立ち尽くし、さっきまでの鼓動の速さが少しずつ落ち着いていくのを感じた。
胸の奥では、別の鼓動が生まれていた。
さっきの背中に手が届く未来を、はじめて想像している自分がいた。
「……俺も、いつか、あんなふうに」
呟くと、横から小さな声がした。
「レオン」
リナが、さっきまでの勝ち気な顔じゃない、少し照れた顔で俺を見ていた。
頬が赤いのは、走ったせいだけじゃないのかもしれない。
「さっき、私を守ろうとしたでしょ。……ありがとう」
胸が熱くなる。
俺は照れ隠しに後頭部をかいた。
「当たり前だろ。友達だからな」
言ってから、少しだけ後悔する。
もっとかっこいいことが言えればよかったのに。
けれどリナは「うん」と満足そうに頷いた。
「でも、次はもっと上手くやるわ。炎も、ちゃんと制御する。だから――」
「だから、俺もちゃんと鍛える。木剣じゃなくて、本物で恥かかないくらいには」
言葉は自然に出てきた。
あの男の一言が、胸のどこかを確かに押したのだ。
二人で狼の亡骸から少し離れ、森の道を引き返す。
木々の隙間から傾いた陽が差し、淡い金色が落ちる。
長く伸びた影が、俺たちの足下で寄り添った。
「ねえ、さっきの人、どこから来たのかな」
「さあ。でも、また会える気がする」
本当は根拠なんてない。
ただ、そうであってほしいと思った。
もう一度あの背中を見て、胸を張って言いたい。
「俺、強くなったよ」と。
村の屋根が見えてくる。
遠くから、夕餉を知らせる鐘の音。
いつもの日常が待っている。
けれど、同じ日常には戻らない気がした。
今日、俺は夢を見たからだ。
守りたいと思った人を、ちゃんと守れる自分に――
いつか、必ず。
その日、少年は夢を見た。
誰かの背中を追いかける夢を。
そして、その一歩目を、確かに踏み出したのだった。
その背中を追いかけて 少年が夢を見た日 千代瀬 @chiyose
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