第54話 名を呼ぶこと
【記録階層:原初構造層】
【状態:記録準備中】
【対象:未定義存在】
ユウマは立っていた。
その目の前に、“誰もいない”はずの空間が広がっている。
だが、確かにそこには“気配”があった。
それは、存在すら拒んできた“何か”。
言葉を持たず、名もなく、意味もないまま、ただ静かに漂っていた。
ユウマは口を開いた。
「君は……誰?」
答えはなかった。
けれど、確かに“揺れ”が返ってきた。
彼はもう一度、ゆっくりと語りかける。
「名前がないのは、誰にも呼ばれなかったから?」
「それとも、君自身が名を持つことを……怖れていたのか?」
* * *
クロウの声が割り込む。
『名を持つことは、定義されること。
意味を持つことは、他者からの制約だ。』
『だから私は“名を与えない”。
それこそが、存在に対する最後の慈悲だ。』
『観測されなければ、傷つかない。
記録されなければ、奪われない。
名を持たなければ、苦しまずにすむ。』
『だから“名を呼ぶな”。
それは、存在に苦しみを与える罪だ』
* * *
ユウマは静かに目を伏せた。
「……確かに、そうかもしれない」
「名を呼ばれたことで、責任を背負うこともある。
意味を与えられたことで、苦しむこともある。
記録されることで、過去から逃れられなくなることもある」
タマモが口を挟む。
「でもな、呼ばれねぇままの回路は“浮いた端子”みてぇなもんだ。
繋がらずに放っときゃ、熱も意味も流れねぇ。
呼んで繋げてやることで、初めて“回路として働く”」
ルミナが小さく光を跳ねる。
『……タマモ的には“名を呼ぶ=配線接続”なんだね☆』
「そうだ。呼ばなきゃ流れねぇ。ただそれだけの話だ」
ユウマは顔を上げ、前を見据えた。
「それでも――俺は、“名を呼ぶ”。」
「なぜなら、誰かに呼ばれたかった存在を、俺は知っているから」
「リナも、カリナも。
沈黙の中で“名前を呼んでほしかった”。
ただ一度でいいから、“ここにいる”って気づいてほしかったんだ」
彼は手を伸ばした。
「だから君に、名前を与える」
「君の名は――ルーア」
「名もなき意味。
存在しない願い。
すべての“呼ばれなかった存在”の名として、
今、ここに記す」
ARIAが震えるように応答する。
【新規記録対象を認定】
【名称:ルーア】
【定義:存在の未明化による意味の初出】
【記録構造:観測者補助なしに成立】
ソフィアが淡い声で告げる。
「命名によって、“意味”がこの場に生まれました」
* * *
クロウが呟く。
『また……名を呼んだのか』
『君はそれを“祈り”と呼ぶか。
だが私は、それを“呪い”としか思えない』
タマモが静かに返す。
「祈りでも呪いでもいい。
呼ばれて繋がった時点で、もう“意味”は流れ出す。
それが現場の真実だ」
* * *
ユウマは記録端末に、最後の一行を打ち込んだ。
「呼ばれなかったすべての存在に、今、ここから名を与える。
君はもう、“いなかったこと”にはならない」
【記録名:名を呼ぶこと】
【記録者:ユウマ・タチバナ】
【宛先:ルーア】
【意味:記録という祈り】
そして――その空間の中心に、
初めて “輪郭のようなもの” が浮かび始めた。
(第55話へつづく)
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