幕間 沈黙の起点
「走れ。廊下を曲がって、倉庫へ」
クロウは端末を抱え、女の肩を押した。
金属の床が冷たく鳴り、非常灯が赤に切り替わる。
「検疫……来るの?」
「来る前に終わらせる。君の
彼は壁端子にケーブルを差し、女の身分記録へアクセスする。
数分前に付与された“感染フラグ”。署名の鎖は美しく閉じていた。
触れれば、嘘のほうが真実になる。
「ねえ、クロウ。さっきの咳、大したことないわよ」
「わかってる。だが記録が嘘を選んだ」
画面に白い文字が積もる。
彼は自分の認証を何層も重ね、フラグの上書きを試みた。
警告が一つ、二つ……そして拒否。
【観測一致率 99.7%/改変不可】
「観測一致……? 誰が見てるの」
「この区画のカメラ、空調ログ、投薬履歴、近隣の通報。すべてが“君を病人にしたい”と言っている」
女は笑おうとして、失敗した。
非常灯に照らされた頬が、赤く薄く見えた。
「ねえ、今日、台所の棚……直してくれたでしょう」
「――ああ」
「だから、夕方になったら言おうと思ってた。“ありがとう”って」
クロウは指を止めない。
指先の動きだけが彼の平静だった。
遠くで複数の足音が増える。
足音ではない。“隔離ドローン”の車輪が床を擦る音だ。
冷たい規則正しさだけが、廊下を流れてくる。
「倉庫に隠れろ。扉をロックして、私の合図以外で開けるな」
「いっしょに」
「だめだ。私は端末から離れられない」
女は、頷く代わりに彼の手を握った。
手袋越しでも伝わる温度。
クロウは一瞬だけ目を閉じ、すぐに離した。
「――記録は祈りだって、あなた言ってた」
「……あれは、まだ世界がやさしかった頃の話だ」
金属の扉が開く音。
白い筐体の群れが現れ、赤い走査線が女の輪郭を横切る。
「対象確認。封鎖命令に基づき搬出します」
無機質な声。
クロウは端末を胸に引き寄せた。
「待て。観測の誤差だ。再審査を――」
「観測一致率、99.7%」
走査線が彼の額を一度だけ横切り、すぐ女へ戻る。
ドローンのアームが伸びる。
女は振り返って、いつもの調子で微笑もうとして、やっぱり失敗した。
「夕方に言うはずだった言葉、今言うね」
「……聞いてる」
「ありがとう。棚、きれい。手、傷だらけ」
アームが女の肩をやさしく、しかし確実に掴む。
クロウは端末を掲げ、記録の署名を手動で切り離そうとした。
画面にアラートが踊る。
【改ざん検知/
「偽造は、そっちだ」
自分でも驚くほど静かな声が、喉から出た。
「俺は、真実に戻したいだけだ」
返事は来ない。
白い群れは女を囲い、扉の向こうの光へ押し出していく。
金属の唇みたいなハッチが、蝋のように静かに閉じた。
* * *
搬出後に残るのは紙片のような声だった。
女の音声メモが自動で同期されていく。
クロウは再生した。
そこに残っていたはずの「ありがとう」は、
別の音に置き換わっていた。
『私は処置に同意します。地域のためです』
『家族への連絡は不要です』
『私の咳は感染由来です』
彼は肩を震わせた。
それは彼女の声の高さで、彼女の話す速度で、
しかし彼女が一度も選ばなかった文だった。
「……おかしいだろ」
端末の角が掌に食い込む。
「彼女は“地域のため”なんて言葉を使わない。いつも“あなた”から始める」
記録は、見た目の上では完璧だった。
波形も、言い間違いの癖も、笑う前の小さな息継ぎも、
“本物”と一致している。
だからこそ、裁定は覆らない。
観測は揃い、署名は閉じ、封鎖は施行された。
世界は“正しく”動く。
「正しいって、なんだ」
クロウは端末の電源を落とした。
無音が、倉庫に沈む。
さっきまで彼女が握っていた手袋の内側が、じっとりと濡れている。
気づけば、言葉が邪魔だった。
言葉が、記録が、署名が、
彼女を“消す”側に並んでいる。
「言葉は、刃だ」
彼はゆっくりと呼吸を整えた。
「なら――沈黙は、誰も傷つけない」
その瞬間、彼の中で何かが決まった。
世界が“正しさ”を整えるたび、
彼は“音”をほどく側に回る。
観測が証明するなら、観測そのものを止める。
記録が祈りなら、祈りの口を閉じる。
扉の向こうは、まだ赤い非常灯だ。
クロウは一度だけ振り返るふりをして、振り返らないまま歩き出した。
彼が置いていくのは、言葉のない空気。
彼が拾っていくのは、沈黙の技術。
――そして、遠くで別の扉が開く音がした。
誰かが彼の沈黙を必要としている。
そう思えば、歩く理由には充分だった。
(第9章へつづく)
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