第44話 不遇の賢者、法の抜け道
関所を見下ろす丘の上での、地道な情報収集活動が始まってから、数日が経過した。
ジョウイチの弟子たちは、交代で見張りを続けながら、関所の警備体制、衛兵の交代時間、そして、通行する旅人たちの流れを、詳細に記録していった。
彼らが、まず気づいたのは、自分たちと同じように、関所で足止めされている男たちが、決して少なくないということだった。
商人と思しき男、傭兵風の男、巡礼者のような男。彼らは皆、「女性の保護監督者がいない」という、ただ一点の、しかし絶対的な理由によって、王都への道を阻まれ、関所の手前で、途方に暮れていた。
そのほとんどは、数日間、衛兵に懇願したり、賄賂を渡そうとして失敗したりした後、諦めて引き返していく。
だが、その、足止めされた男たちの中に、一人だけ、異質な雰囲気を放つ青年がいた。
年の頃は、二十歳前後だろうか。着ている服は、上質そうな生地ではあるが、あちこちが擦り切れ、長い旅の疲れを物語っている。貴族の家系に連なる者であろうことは、その優雅な立ち居振る舞いから窺えたが、今の彼に、その身分に伴う力がないことは、明らかだった。
他の男たちが、不平を言ったり、やさぐれて酒を飲んだりしている中、その青年だけは、ただ静かに、木陰に座り、分厚い書物を熱心に読みふけっていた。その姿は、絶望的な状況にありながらも、不思議なほどの落ち着きと、そして、知性の光を放っていた。
「…おい、レオン。あいつ、ちょっと、他とは違うな」
見張りをしていたリックが、その青年の存在に気づき、レオンに声をかけた。
「ええ。何日もここにいるのに、少しも、取り乱す様子がありません」
二人は、ジョウイチに報告した後、その青年に、接触してみることを決めた。知恵でこの状況を打開すると決めた以上、何かを知っていそうな人間に、話を聞くのが、最も効率的な「脳のトレーニング」だと、彼らは学んでいた。
「よぉ、旦那。あんたも、あのイカれた法律のせいで、足止めかい?」
リックが、わざと軽薄な口調で、青年に話しかけた。
青年は、読んでいた本から顔を上げると、リックと、その背後に立つ屈強な男たち(レオンとゴードン)を一瞥したが、特に驚く様子もなく、静かに答えた。
「…ええ、その通りです。王国法典、第二章、第七項、『男性臣民の国内移動に関する規定』。厄介な法律ですよね」
その、あまりにも的確で、博識な答えに、リックは、思わず言葉を詰まらせた。
青年は、自らを、クラウスと名乗った。彼は、やはり、かつては王都で名の知られた貴族の家の出身だったが、政争に敗れて家は取り潰され、今は、ただの不遇な元貴族として、各地を放浪しているのだという。
「僕は、王都の中央書庫で、どうしても調べたい文献があって、ここまで来たのですが…ご覧の有様です。我が家には、もはや、僕の保護者となってくれる女性は、一人もいませんからね」
クラウスは、自嘲するように、そう言った。
「だったら、諦めて引き返すしかねえのかよ…」
リックが、吐き捨てるように言うと、クラウスは、ふっと、意味深な笑みを浮かべた。
「諦める、ですか。それは、思考を放棄した者の、言葉ですよ」
「…なんだと?」
「法律とは、確かに、絶対的な力を持つ、巨大な壁のようなものです。力ずくで壊そうとすれば、手痛い反撃を受けることになるでしょう。ですが」
クラウスは、読んでいた本の、ある一節を指差した。
「どんなに、完璧に見える壁でも、それを、注意深く、そして、正しく読み解くことができれば…必ず、どこかに、小さな亀裂…いわゆる、『抜け道』というものが、存在するのですよ」
その言葉に、ジョウイチの弟子たちは、息を飲んだ。
クラウスは、こともなげに、その法律の抜け道を、彼らに解説し始めた。
「問題の第七項には、確かに、『男性が長距離を移動する際は、女性保護監督者の通行許可証を必要とする』とあります。ですが、よく読んでください。この条文には、その『女性保護監督者』が、誰でなければならないかという、具体的な規定が、一切ないのです」
「…どういう、ことだ?」
「つまり、血縁者である必要も、貴族である必要も、さらには、この国の国民である必要さえない。極端な話、その場で出会った、どこの誰とも知れない女性であったとしても、『私は、この男の保護監督者です』という、法的に有効な契約書を交わし、それを、公証人の資格を持つ役人の前で宣誓すれば、理論上、通行許可証は、発行されるはずなのです」
それは、まさに、コロンブスの卵だった。
彼らは、ただ、法律の条文を、額面通りに受け取り、絶望していた。だが、この、クラウスという青年は、その文章の裏に隠された、法の不備を、完璧に見抜いていたのだ。
「…だが、そんな契約に、サインしてくれる女が、いるのかよ。それに、公証人なんて、どこに…」
リックが、半信半疑で尋ねる。
「ええ、それこそが、この抜け道の、最も難しいところです。ですが、不可能ではありません。少なくとも、この壁の前で、ただ絶望しているよりは、遥かに、可能性があると思いませんか?」
クラウスは、静かに本を閉じた。
ジョウイチたちが、力でなく、知恵で突破する方法を模索し始めて、数日。
彼らは、ついに、その突破口となりうる、一人の不遇な賢者と、出会ったのだった。
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