第38話 磨き上げた一撃、砕ける常識

観客の声援は、もはや、どちらが正義でどちらが悪かを判断するものではなかった。それは、ただひたむきに、絶望的な状況に抗い続ける、一人の男の魂に向けられた、純粋なエールだった。そして、そのエールは、リング上の二人の戦士の心理状態を、確実、かつ、決定的に変質させていた。




“紅蓮の”ヒルデガルド。彼女は、その半生を、最強であるための孤独な道に捧げてきた。その圧倒的な力は、常に、畏怖と恐怖の対象であり、彼女が民衆から声援を浴びることは、これまで一度もなかった。だが、それで良かった。強者とは、そういうものだと、自分に言い聞かせてきた。


なのに、今、自分に向けられるはずだった畏怖は、目の前の、泥だらけの小僧への声援へと変わっている。


なぜだ。自分の方が、圧倒的に強いはずなのに。なぜ、誰も、自分の勝利を、力を、認めてくれない。


長期戦で焦りを見せた女騎士の心に生まれた、その僅かな驕りと、そして嫉妬にも似た感情が、彼女の剣から、絶対的な精度を奪っていた。攻撃は、ますます苛烈になる。だが、その一撃一撃は、勝利を焦るあまり、徐々に大振りになっていた。




対するレオンは、極限の集中状態にあった。


全身を殴打される痛みは、もはや、遠い世界の出来事のように感じられた。観客の声援が、不思議な温かさをもって、彼の心を包み込んでいる。


(コーチ…みんな…見ていてくれている…!)


その想いが、彼の最後の燃料だった。


彼は、ただ防御に徹しながらも、その瞳は、嵐のように荒れ狂うヒルデガルドの剣筋の、さらに奥にある、彼女の心の揺らぎを、確かに捉えていた。


(来る…! コーチの言っていた、最高の好機が…!)


リックが命懸けで集めた情報。「猛攻を三度凌げば、必ず隙ができる」。そして、ジョウイチと、来る日も来る日も繰り返した、カウンターの訓練。全てのピースが、今、一つに繋がろうとしていた。




ヒルデガルドが、ついに痺れを切らした。


「終わりだ、小僧ッ!」


怒声と共に、彼女は、今までで最大級の威力を込めた、渾身の横薙ぎを放った。それは、レオンの体を、槍ごと両断しようという、あまりにも大振りな一撃。


レオンは、その動きを、待っていた。


彼は、後ろに跳んで回避するのではなく、逆に、一歩、死地へと踏み込んだ。そして、地面スレスレまで、深く、深く、その身を屈める。


ヒルデガルドの剣が、彼の頭上、ほんの数センチを、空しく通り過ぎていった。


体勢を低くしたレオンの目に、ヒルデガルドの姿が、スローモーションのように映る。渾身の一撃を空振りさせられ、彼女の体は、一瞬だけ、完全にバランスを崩していた。がら空きの胴体。大きく開いた、無防備な懐。


それは、まさに、彼女が自ら作り出した、一瞬の隙だった。




レオンは、動いた。


彼が放ったのは、攻撃ではない。それは、ジョウイチに、血反吐を吐くまで叩き込まれた、磨き上げたカウンターの一撃だった。


彼は、屈んだ体勢から、地面を蹴る力、腰の回転、腕の振り、その全てを、槍の先端、ただ一点へと収束させる。それは、力任せの突きではない。相手の力を利用し、最小の動きで、最大の威力を生み出す、洗練された身体操作の極致だった。


狙うは、胴体ではない。その、絶対的な強者の象徴である、顔面を覆う、鋼の兜。


「オオオオオオオッッ!!」


レオンの、魂の咆哮が、広場に響き渡った。




ゴッ!!!




今までとは、明らかに質の違う、硬い、そして重い衝撃音が、観衆の耳を打った。


レオンの槍の穂先は、寸分の狂いもなく、ヒルデガルドの兜の、ちょうど側頭部を、捉えていた。


時が、止まったかのような静寂。


そして、次の瞬間。


パキィィィィィンッ! という、甲高い音と共に、最強の騎士の兜が、砕けた。


分厚い鋼鉄で作られたはずの兜に、大きな亀裂が走り、その衝撃で、ヒルデガルドの体は、大きくよろめいた。


兜は、顔の半分がずり落ち、今まで隠されていた、彼女の、信じられないものを見るかのような、驚愕に目を見開いた素顔が、初めて、観衆の目の前に晒された。




決闘が、完全に、静止した。


広場は、水を打ったように静まり返っている。


ヒルデガルドは、よろめきながら、震える手で、自らの割れた兜に触れた。レオンは、槍を構えたまま、荒い息を繰り返している。


勝敗は、まだ、ついていない。


だが、この瞬間、この決闘の意味は、決定的に変わった。


村で最も弱いと蔑まれた少年が、最強の騎士に、確かに、一撃を与えたのだ。その事実は、この村の、いや、この世界の常識そのものを、打ち砕く、あまりにも重い一撃だった。


静寂を破ったのは、誰からともなく上がった、一つの雄叫びだった。そして、それは、やがて、広場全体を揺るがす、地鳴りのような大歓声へと変わっていった。

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