第27話 小さな差し入れ、最初の共感
崖での作業が始まって、十日以上が経過した。ジョウイチたちの常人離れした仕事ぶりは、もはや村の日常風景の一部と化していた。彼らを嘲笑しに来る者はいなくなり、代わりに、遠巻きに、そして静かに、その驚異的な作業を見守る女性たちの姿が、毎日必ず数人はあった。
その日も、四人の男たちは、日の出と共に訓練という名の労働を開始していた。彼らの体は、過酷な環境の中で、さらに逞しく研ぎ澄まされていたが、疲労の色は隠せない。夜に森で獲物を狩る時間も惜しんで作業に打ち込んでいるため、彼らの食事は、再び乏しいものとなっていた。腹は、常に空腹を訴えていた。だが、彼らは決して弱音を吐かず、ただ黙々と、己の肉体と精神の限界に挑戦し続けていた。
その日の見物人の中に、一組の母娘がいた。母親は、まだジョウイチたちに懐疑的な視線を向ける一人で、「いつまで続くものかねぇ」などと、隣の友人とひそひそ話している。だが、その隣に立つ、まだ十歳にも満たないであろう少女は、全く違う目をしていた。
少女の、曇りのない瞳に映っているのは、ただ、ひたむきに汗を流す男たちの姿だった。巨大な岩を、声を掛け合いながら運ぶ姿。仲間が足を滑らせそうになると、すぐに手を差し伸べる姿。そして、休憩時間に、わずかな水を分け合って飲む姿。
少女には、難しい理屈は分からない。男が弱いとか、女が強いとか、そんな常識も、まだ彼女の心には深く根付いていない。彼女にはただ、目の前の人たちが、とても大変なことを、すごく一生懸命に頑張っているように見えた。そして、お腹を空かせているに違いない、と、子供心に思ったのだ。
その日の昼過ぎ、男たちが、一日のうちで最も消耗する時間帯だった。少女は、母親が友人との会話に夢中になっている一瞬の隙をついた。
彼女は、昼食のために母親から渡されていた、自分の分のパンを、スカートのポケットに隠していた。
そして、母親に気づかれないよう、そっとその場を離れると、崖道の方へと駆け出した。
「あっ、危ない!」
見張り役だったリックが、少女の接近に気づいて声を上げる。作業をしていた男たちが、一斉に動きを止めた。子供がこんな危険な場所に来ては、万が一にも怪我をさせるわけにはいかない。
だが、少女は、作業現場の入り口、男たちが道具を置いている安全な場所まで来ると、ピタリと足を止めた。
彼女は、おずおずと、ポケットから一つの小さな丸いパンを取り出した。そして、それを、近くにあった平らな岩の上に、そっと置いた。
レオンが、何か声をかけようとするが、少女は、何も言わなかった。ただ、泥だらけの男たちを一度だけ見上げると、はにかむように、そして少しだけ怯えたように、ぺこりと一度だけ頭を下げた。そして、くるりと踵を返すと、母親の元へと、一目散に走り去っていった。
後に残されたのは、小さなパンが一つと、あっけにとられた四人の男たちだけだった。
しばらく、誰もが、何が起きたのか理解できずに、その場に立ち尽くしていた。
やがて、我に返ったリックが、乾いた声で言った。
「…おいおい、なんだよ、今の…」
ゴードンは、その大きな瞳に、うっすらと涙を浮かべていた。
レオンは、ゆっくりと、その小さなパンが置かれた岩へと歩み寄った。彼は、まるで宝物にでも触れるかのように、そっと、そのパンを手に取った。まだ、ほんのりと温かい。
それは、決して上等なパンではない。村の誰もが口にする、素朴で、少し固いパンだ。だが、今の彼らにとって、それは、どんなご馳走よりも、価値のあるものに思えた。
これは、同情ではない。憐憫でもない。
ただ、自分たちのひたむきな姿を見て、心を動かしてくれた、名も知らぬ一人の少女からの、純粋な「共感」の証だった。
彼らが、背中で語り続けてきた想いが、初めて、誰かの心に届いた瞬間だった。
ジョウイチは、そんな弟子たちの姿を、静かに見つめていた。そして、パンを手に立ち尽くすレオンの肩に、ポンと手を置いた。
「…それが、お前たちが、その背中で勝ち取った、最初の信頼だ。誇れ」
レオンは、頷くと、その小さなパンを、丁寧に四つに分けた。一人分は、指でつまめるほどの、本当に小さな欠片だ。
だが、そのパンを口に入れた瞬間、四人の体には、今まで感じたことのない、温かな力が漲っていくのを感じた。それは、腹を満たすための栄養ではなかった。渇ききっていた、彼らの魂を潤す、優しさという名の、栄養だった。
それは、代官ロザリアが築き上げた、分厚い偏見と差別の壁に穿たれた、最初の、しかし、決定的な亀裂となった。
男たちの心に、一人の少女が灯した、温かな希望の光だった。
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