第1部: 黎明編 エピソード3: 【淑女の鞭と男の背中】
第21話 交わらぬ哲学、決裂の宣告
魔猪討伐の熱狂と、支配者である女性代官ロザリアが残した冷たい余韻。その二つが奇妙に同居する村の空気の中で、ジョウイチたちの日常は、新たな緊張感をはらみながらも続いていた。彼らは、以前にも増して、ストイックにトレーニングに打ち込んでいた。次に訪れるであろう「対立」が、森の獣との戦いとは全く質の異なるものであることを、誰もが予感していたからだ。
その日は、突然訪れた。
彼らが拠点とする狩人の小屋に、一分の隙もない武装をしたロザリア直属の衛兵たちが現れたのだ。村の衛兵とは明らかに違う、精鋭だけが放つ張り詰めた空気が、その場を支配する。
「代官ロザリア様からの、正式な召喚命令である。城之内譲一と名乗る男、速やかに我々と共に出頭せよ」
衛兵の一人が、抑揚のない声で命令を告げる。それは、拒否を一切許さない、絶対者の通達だった。
レオン、リック、ゴードンの三人は、緊張に体を硬くした。リックなどは、こっそり裏口から逃げる算段を立てようとしている。
だが、ジョウイチは、まるでこの時を待っていたかのように、落ち着き払っていた。
「分かった。行こう」
彼は、弟子たちの不安を鎮めるように、その分厚い手でそれぞれの肩を一度だけ叩くと、一人で衛兵たちの方へと歩みを進めた。
ジョウイチが通されたのは、村で最も大きく、そして権威の象徴である代官の執務室だった。
磨き上げられた床、壁一面に並べられた書物、そして華美ではないが、一点の曇りもない調度品。全てが、支配者であるロザリアの、冷徹で、秩序を重んじる性格を物語っているようだった。
ロザリアは、巨大な執務机の向こうで、静かにジョウイチを待っていた。
「…来ましたか、城之内譲一」
「ああ。それで、話とは何だ」
ジョウイチは、勧められもせずに、ロザリアの正面にある椅子にどっかりと腰を下ろした。その不遜な態度に、ロザリアの眉がわずかにピクリと動く。
「単刀直入に言いましょう」
ロザリアは、指を組み、その氷のような視線でジョウイチを射抜いた。
「あなたの、その危険な活動を、即刻中止しなさい」
交渉の余地などない、命令だった。
「あなたの言う『コーチング』とやらは、この地の秩序を著しく乱すものです。男は、弱く、庇護されるべき存在。その脆弱さの上に、我々の社会の平和と均衡は成り立っているのです。あなたはその根幹を揺るがそうとしている」
ロザリアの言葉は、この世界の支配者としての、揺るぎない哲学に裏打ちされていた。彼女は、決して私利私欲で動いているわけではない。彼女なりに、この世界の平和を維持しようとしているのだ。その方法は、男から力を奪い、管理するという、歪んだものではあったが。
「あなたは、男たちに無用な力を与え、そして何より、『誇り』などという、最も危険な思想を植え付けている。それは、いずれ大きな争いの火種となるでしょう。そうなる前に、芽は摘まなければなりません」
彼女は、一つの提案を口にした。
「今すぐ、あなたの弟子たちを解散させ、この地を去るというのなら、今までのことは不問とします。これは、魔猪を討伐した功績に免じた、私からの、最後の温情です」
それは、ロザリアなりの、最大限の譲歩だったのだろう。だが、その提案は、ジョウイチの哲学とは、決して交わることのない、対極の思想だった。
ジョウイチは、ロザリアの言葉を最後まで黙って聞いていたが、やがて、フッと鼻で笑った。
「断る」
その一言は、短く、しかし絶対的な拒絶の意志が込められていた。
「秩序だと? 均衡だと? 笑わせるな。貴様が言っているのは、ただの『支配』だ。弱い者を、弱いままにしておくことでしか保てない平和など、偽りの平和にすぎん」
ジョウイチは、椅子から立ち上がった。その巨体が、ロザリアに強烈な圧力をかける。
「俺は、彼らの可能性を信じている。男も女も関係ない。全ての人間が、己の限界に挑戦し、成長することで、世界はより良いものになる。俺がやっているのは、その手助けだ。それは、誰にも、たとえこの世界の支配者であろう貴様にも、止める権利はない」
交わらない。二人の哲学は、水と油のように、決して交わることはなかった。
ジョウイチの、あまりにも堂々とした反逆の宣言に、ロザリアの顔から、ついに表情が消えた。その瞳には、絶対零度の光が宿る。
「…交渉は、決裂ですね」
彼女は、静かに、しかしはっきりと宣告した。
「あなたは、自ら、法に刃向かう道を選んだ。ならば、こちらも、それ相応の対応を取るまでです」
その言葉は、もはや脅しではなかった。これから始まる、冷徹な弾圧の始まりを告げる、宣戦布告だった。
「この地で、私の秩序に逆らうことが、どれほど愚かなことか。その鍛え上げた肉体で、嫌というほど味わうことになるでしょう。…お下がりなさい」
ジョウイチは、それ以上何も言わず、静かに執務室を後にした。
彼が小屋に戻ると、三人の弟子たちが、不安げな顔で待ち構えていた。
「コーチ…! 話は…」
レオンが、心配そうに駆け寄る。
ジョウイチは、三人の顔をゆっくりと見回すと、ニヤリと、獰猛な笑みを浮かべた。
「ああ、決裂だ。どうやら、俺たちの次のトレーニング相手は、あの女代官らしいぞ」
その言葉を、三人は、ゴクリと唾を飲んで受け止めた。
森の獣との戦いは終わった。そして今、社会という、より巨大な怪物との、新たな戦いの幕が、静かに上がろうとしていた。
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