第17話 師の一撃、魂の格差

森の空気が、レオンを中心に収束していくかのような錯覚。彼の全神経が、槍の先端、ただ一点へと研ぎ澄まされる。仲間が命懸けで作り出した好機。それを無駄にすれば、自分は一生、自分を許せないだろう。


(貫けッ!)


心の叫びと共に、レオンは鍛え上げた全身の筋肉を連動させ、渾身の一撃をフォレストボアの脇腹へと叩き込んだ 。




ブスリ、と肉を貫く鈍い感触。硬い毛皮と分厚い脂肪に阻まれ、槍は半分ほどしか突き刺さらなかった。だが、確かに届いた。レオンが放った渾身の一撃は、魔猪の体に、初めて深手と呼べる傷を与えたのだ 。




「ギイイイイイイイイアアアアアアッッ!!」




今までとは質の違う、苦痛に満ちた絶叫が森中に響き渡った。フォレストボアは、脇腹に突き刺さった槍をものともせず、その巨体を狂ったように暴れさせた。


「レオン、危ない!」


リックの叫びも虚しく、魔猪の巨体が薙ぎ払うように振った頭部が、レオンの体を横から弾き飛ばした。


「ぐはっ!」


レオンは、木の葉のように宙を舞い、地面に叩きつけられる。幸い受け身を取ったことで大事には至らなかったが、全身を強打し、息ができなかった。


傷を負った魔獣は、理性を失い、ただ目の前の動くもの全てを破壊しようと暴れ狂う。その矛先は、身を隠していたリックとゴードンへと向かった。


「まずい!」


「うわあああっ!」


もはや、戦術も連携も通用しない。死を覚悟した三人の前で、その時は、あまりにも静かに、そして唐突に訪れた。




今まで戦況を静観していたジョウイチが、初めて動いた。


それは、動き、と呼ぶにはあまりにも速すぎた。まるで、その場から消えたかと思うと、次の瞬間には、暴れ狂うフォレストボアの真正面に立っていた。


「なっ…」


レオンは、痛みも忘れ、その光景に息を飲んだ。


魔猪は、目の前に現れた新たな敵を認識し、その有り余る全ての質量を乗せて、ジョウイチへと突進した。地響きが起き、木々が震える。誰もが、ジョウイチが次の瞬間には肉塊になると信じて疑わなかった。


だが、ジョウイチは、避けなかった。


彼は、仁王のようにその場に立ち、迫り来る魔猪を正面から見据える。そして、その刃のような牙が、自らの体に届こうかという、まさにその瞬間。


ジョウイチは、獣の常識を超えた、神業のごとき一手を放った。


彼は、突進してくるフォレストボアの巨大な牙を、こともなげに、片手で鷲掴みにしたのだ。




ズズンッ、と大地が軋む音がした。


時速数十キロで突進してきたであろう、数トンの巨体が、まるで壁に激突したかのように、ピタリと動きを止めた。ジョウイチの足元の大地がひび割れ、彼の踏みしめた足が、その衝撃の凄まじさを物語っていた。だが、彼自身は、その上半身、微動だにしていない。


「な…に…」


リックが、呆然と呟く。ゴードンは、あまりの光景に、声も出せずにいた。


それは、もはや人間と獣の戦いではなかった。神話の世界で語られる、英雄と魔物の戦いそのものだった。


「グルル…?」


フォレストボア自身も、何が起きたのか理解できていないようだった。その赤い瞳に、初めて困惑と、そして恐怖の色が浮かぶ。


ジョウイチは、牙を掴んだまま、静かに、しかし腹の底から響くような声で言った。


「貴様は、よくやった。俺の弟子たちを、一回り成長させてくれた」


それは、まるで強敵ともに語りかけるような口調だった。


「礼を言う。そして――」


ジョウイチの、牙を掴んでいない方の拳が、ゆっくりと、しかし凄まじい圧力を漲らせながら、後ろへと引かれる。彼の腕の筋肉が、彫刻のように隆起し、はち切れんばかりに膨れ上がった。


「――眠れ」




その言葉と共に、ジョウイチの拳が、フォレストボアの眉間へと叩き込まれた。


音は、なかった。


ただ、ゴシャリ、という骨が砕ける鈍い音だけが、やけにクリアに三人の耳に届いた。


ジョウイチの一撃は、鋼鉄のようだと噂された魔猪の頭蓋骨を、内側から破壊したのだ。フォレストボアの巨体から、生命の光が急速に失われていく。その巨体は、ゆっくりと横に傾くと、やがて地響きを立てて、完全に沈黙した。




ジョウイチが、とどめを刺したのだ 。






あまりにも、圧倒的な一撃だった。


レオンたちが、命懸けで、死に物狂いでようやく一太刀浴びせた怪物を、この男は、たった一撃で、しかも素手で葬ってみせた。


森に、再び静寂が戻る。


三人の弟子たちは、言葉もなく、ただ目の前の光景を見つめていた。傷の痛みも、疲労も忘れ、ただ、自分たちの師の、底知れない力の奔流に、魂ごと圧倒されていた。


それは、決して超えることのできない、絶対的な強者の姿。自分たちが目指すべき、遥か頂きにそびえる、偉大な目標の姿だった。


この勝利は、彼らに大きな成功体験をもたらしたと同時に、自分たちの師が、一体何者なのかという、新たな畏怖と尊敬を、その心に深く刻み付けることとなった。

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