第16話 恐怖を統率せよ

絶望的な咆哮が森に響き渡り、三人の若者の魂を凍り付かせた。死が、牙を剥き出しにした獣の姿で、眼前に迫っている。レオンも、リックも、ゴードンも、完全に戦意を喪失し、ただその場で立ち尽くすことしかできなかった。


その、金縛りにあったかのような三人の弟子たちの背後から、地を揺るがすほどの声が響き渡った。




「顔を上げろッ!」




ジョウイチの檄だった。それは単なる大声ではない。恐怖で麻痺した神経を無理やり叩き起こし、魂に直接活を入れる、コーチングの神髄が込められた一喝だった。


三人の肩が、ビクンと跳ねる。彼らは、はっと我に返り、声の主であるジョウイチを振り返った。


コーチは、絶望的な状況にもかかわらず、全く動じていなかった。その瞳は冷静に敵を分析し、その口元には、不敵な笑みさえ浮かんでいる。


「貴様ら、何を呆けている! 目の前にいるのは、ただのデカい猪だ! そして、これは絶好のトレーニングだ! 己の限界を超えるための、最高の舞台だと思え!」


トレーニング。この、命のやり取りさえも、彼はそう断言した。その常軌を逸した言葉が、逆に三人のパニックを鎮めていく。そうだ。俺たちは、コーチの指導のもとにいる。ならば、まだ終わりじゃない。




ジョウイチは、矢継ぎ早に指示を飛ばし始めた。その声は、恐怖に支配された彼らの、唯一の道しるべとなった。


「リック! 貴様の武器は、その口先だけではない! その、臆病なくらい慎重に働く頭脳だ! 敵を観察しろ! 動きを、癖を、弱点を、全て分析して俺たちに伝えろ! 思考を止めるな!」






「は、はいぃっ!」


リックは、恐怖で震えながらも、必死にフォレストボアの観察を始めた。


「ゴードン! 貴様はその巨体を、ただの肉の塊にするな! 仲間を守る、鋼鉄の盾となれ! 挑発し、敵の攻撃を自分に引きつけるんだ! 貴様の役目は、時間を稼ぐことだ!」






「わ、わかった…!」


ゴードンは、ゴクリと唾を飲むと、震える足で一歩前に出た。


「そしてレオン!」


ジョウイチは、最後にレオンの名を呼んだ。


「貴様は、我々の刃だ。槍だ。恐怖を押し殺し、ただ一撃の機会を待て。仲間が作ったその一瞬を、決して無駄にするな!」




役割が、与えられた。それは、絶望的な状況の中で、彼らが為すべきことを明確に示した、命の綱だった。


三人の顔に、微かだが、闘志の色が戻る。


「行くぞ!」


ジョウイチの号令一下、史上最も無謀な魔猪討伐作戦が開始された。




最初に動いたのは、ゴードンだった。彼は、近くにあった巨大な樫の木まで走ると、その幹を背にして、大きく息を吸い込んだ。そして、ありったけの声で叫んだ。


「おい、この豚野郎! こっちだ!」


フォレストボアの血のように赤い目が、ゴードンを捉えた。その巨体は、獲物として不足はない。魔猪は、四肢に力を込めると、一直線にゴードンへと突進を開始した。


地響きを立てながら迫る、山のような巨体。ゴードンは、恐怖で目を見開いたが、ジョウイチの言葉を思い出し、決してその場から動かなかった。


「来い…来い!」


魔猪が牙を振りかざした瞬間、ゴードンは身を翻して、寸でのところで樫の木の背後へと身を隠した。ゴードンの体を捉え損ねた牙は、代わりに樫の木の幹へと深々と突き刺さり、ミシミシと木が裂ける凄まじい音を立てた。




その、決死の陽動を、リックは見逃さなかった。


「今だ! あいつの突進は直線的で、大振りの一撃の後は、動きが止まる! 体がデカい分、小回りが利かないぞ!」


リックは、恐怖と戦いながらも、必死に敵の情報を分析し、大声で仲間に伝えた。


レオンは、その情報を聞きながら、静かに、しかし素早く移動を繰り返していた。敵から距離を取り、常にその側面を捉えるように。槍を握る手は、汗でじっとりと濡れていたが、その切っ先は、寸分も揺らいでいなかった。


フォレストボアは、木に突き刺さった牙を引き抜くと、再びゴードンへと狙いを定める。だが、ゴードンは次の攻撃に備え、すでに別の木の陰へと移動していた。


「こっちだ、こっち!」


ゴードンの挑発。それに釣られて、魔猪は何度も直線的な突進を繰り返す。そのたびに、ゴードンは紙一重で攻撃をかわし、リックがその隙を分析し、レオンが致命的な一撃を放つための最適な位置を探る。




それは、あまりにも危険な綱渡りだった。一瞬でも判断を誤れば、誰かが肉塊へと変わる。だが、不思議と彼らの心は、最初に感じた絶望的な恐怖から、極限の集中状態へと移行していた。


ジョウイチの指揮の下、それぞれの特性を活かしたチーム戦術が、確かに機能し始めていたのだ 。リックの頭脳が「目」となり、ゴードンの勇気が「盾」となり、そしてレオンの技が「槍」となる。






彼らは、恐怖に屈するのではなく、恐怖を統率し、戦う術を、この死線の上で学び始めていた。




「次で決めるぞ!」


ジョウイチの声が飛ぶ。


ゴードンは、最後の力を振り絞って、開けた場所で魔猪を挑発した。リックは、その進路上にある、巨大な岩を指差した。


「あの岩に激突させろ! バランスを崩すはずだ!」


ゴードンの覚悟を決めた顔。リックの確信に満ちた声。それを受け、レオンは静かに呼吸を整えた。仲間が、自分のために、命懸けで最高の舞台を整えてくれている。


ゴードンが、魔猪の突進をギリギリまで引きつけ、横へと跳んだ。猛スピードで突っ込んできた魔猪は、避けきれずにその巨体を巨大な岩へと強かに打ち付ける。


凄まじい衝撃音。フォレストボアが、一瞬、確かにバランスを崩し、その守りの薄い脇腹を、無防備に晒した。




「今だ、レオンッ!」


リックの絶叫が、森に響き渡った。


レオンは、その声に応え、大地を蹴った。もはや、彼の心に恐怖はなかった。ただ、仲間が繋いでくれたこの好機を、絶対にものにするという、刃のような決意だけがあった。


彼の瞳が、槍の穂先が、フォレストボアの急所へと、一直線に吸い込まれていく。

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