第15話 森の脅威、揺らぐ魂
初めて鹿を仕留めたあの日を境に、彼らの狩猟技術は飛躍的に向上した。ジョウイチという最高のコーチの指導のもと、レオン、リック、ゴードンの三人は、それぞれの役割を完璧にこなし始めた。リックの知恵が獲物の動きを読み、ゴードンの圧力が正確に獲物を追い込み、そしてレオンの一撃が確実に仕留める。
チームワークという名の筋肉は、日ごとに、そして獲物を仕留めるごとに、より強靭なものへと成長していった。彼らはもはや、村からの施しに頼ることなく、自分たちの力だけで腹を満たすことができるようになっていた。潤沢なタンパク質と過酷なトレーニングにより、三人の体つきは、見違えるほど逞しくなった。
その成功は、彼らにとって大きな自信となっていた。この森で、自分たちに獲れないものはない。そんな驕りにも似た感情が、彼らの心に芽生え始めていたことを、まだ誰も自覚してはいなかった。
異変の兆候は、些細なことから始まった。
「…おい、なんだ? この足跡…」
その日、森の奥深くへと分け入っていたリックが、地面のある一点を指差して眉をひそめた。そこには、今まで見たこともないほど巨大な、蹄の跡が残されていたのだ。まるで、小型の荷馬車が通ったかのようだ。
「イノシシ…でしょうか?」
レオンが尋ねると、リックは首を横に振った。
「だとしても、デカすぎる。こんなサイズのイノシシなんているもんか」
それだけではなかった。周囲の木々の、大人の背丈よりも高い位置にある幹が、まるで巨大な刃物で抉られたかのように、深くえぐられている。森の空気も、どこか重く、獣たちの気配がいつもより少ない気がした。
「…コーチ、なんだか、嫌な感じがします」
レオンがジョウイチを振り返る。ジョウイチは、巨大な足跡と木の傷を黙って観察していたが、その表情は普段と変わらず、静かなままだった。
「深入りは危険だ。今日は引き揚げよう」
ジョウイチのその言葉に、三人は安堵した。だが、彼らの心には、得体の知れない「何か」に対する、漠然とした不安の種が蒔かれたのだった。
村に戻ると、その不安を裏付けるかのように、不穏な噂が彼らの耳に入ってきた。
「おい、聞いたか? 村の家畜が、また一頭やられたらしい」
「夜中に、森の方から地響きみたいな音が聞こえたって話だ」
「ベテランの猟師でさえ、『森の主が目を覚ましたのかもしれん』と言って、誰も森の奥には近づこうとしないらしい…」
村人たちの間で囁かれているのは、この森に古くから棲むと伝えられる、一頭の巨大な魔獣の存在だった。その名は、「フォレストボア」。普通の猪が突然変異した、山のような巨体と鋼鉄の毛皮を持つ、森の脅威。
その話を聞いても、レオンたちはまだ、どこか他人事のように感じていた。自分たちが強くなったことで、一種の万能感に浸っていたのだ。
「フォレストボア、か。見てみたいもんだな」
リックが、軽口を叩く。
「僕たちなら、もしかしたら…」
レオンの心にも、危険な好奇心が芽生え始めていた。
その、若者たちの未熟な自信を、ジョウイチは黙って見つめていた。彼は何も言わなかった。本物の脅威とは、言葉で教えられるものではなく、自らの魂で実感するしかないことを、知っていたからだ。
そして、運命の日は、唐突に訪れた。
その日、彼らはさらに腕を磨くため、いつもより深く森へと足を踏み入れていた。その、開けた場所に出た、瞬間だった。
―――グルルルルルル…
地を這うような、低い唸り声。空気がビリビリと震える。
四人は、同時に動きを止め、声のした方を向いた。
茂みの奥から、ゆっくりと姿を現したのは、彼らの想像を絶する大きさの、一頭の猪だった。
いや、もはや猪という言葉が陳腐に聞こえるほどの、怪物だった。
体高はゴードンの背丈を優に超え、その体は黒光りする鋼鉄のような剛毛で覆われている。口から突き出た二本の牙は、まるで湾曲した剣のように鋭く、不気味な光を放っていた。そして、血のように赤い両の目が、憎悪と破壊衝動に満ちた光で、四人を射抜いていた。
村の脅威である巨大な魔猪、「フォレストボア」との遭遇だった 。
その姿を前に、四人の間に、死という名の沈黙が落ちた。
今まで培ってきた自信が、ガラスのように粉々に砕け散る音がした。仲間たちは、恐怖した 。
「う…そだろ…」
リックの顔から、血の気が引いた。自慢の口八丁も、この絶対的な恐怖の前では何の意味もなさない。腰が抜け、その場にへたり込みそうになるのを、必死で堪えていた。
ゴードンは、完全に思考が停止していた。その巨体は小刻みに震え、瞳は怯えきった子供のように、ただ目の前の怪物を見つめることしかできなかった。彼の自慢のパワーも、この化け物の前では、赤子の戯れに等しいと思えた。
そしてレオンもまた、例外ではなかった。彼は震える手で、槍を握りしめる。戦わなければ。だが、体が動かない。指一本動かすことすら、億劫だった。蛇に睨まれた蛙のように、ただ圧倒的な死の気配に、魂を縛り付けられていた。
三人が、絶望的な恐怖に支配される中、ただ一人、ジョウイチだけが冷静だった。彼は、フォレストボアから視線を外すことなく、その筋肉の動き、呼吸、重心を、正確に分析していた。その表情に、恐怖の色はない。ただ、眼前に現れた、規格外の「敵」に対する、コーチとしての静かな闘志が燃え盛っているだけだった。
ブゴオオオオオオオオッッ!!
フォレストボアが、天を揺るがすほどの咆哮を上げた。それは、彼らにとって、死刑執行の宣告のように響き渡った。
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