第11話「観客の選択」
拍手の余韻は、意外なほど長く残った。
客席に広がった手の音が壁や天井に弾み、やがて空調の風に混じって消えていく。私はその音の中で耳を澄まし続けた。舞台人にとって、音が消える瞬間ほど恐ろしいものはない。客の心が手放されるからだ。だが今夜の手拍子は違った。客席は舞台のリズムを奪い返し、再び自分のものとして鳴らし、やがて静かに置いた。
――舞台を観客に戻した。
その手応えが私の胸に重く沈む。舞台監督が仕掛けた合図の連鎖は、ひとまず断ち切られた。だが、幕はまだ下りていない。
私は思った。ここからは、観客に“選ばせる”必要がある。観客が自分で選んだと思える瞬間を用意しなければ、舞台は犯人のものになったままだ。
翌朝、私は控室の机の上に白紙を何枚も並べた。白は余白だ。だが、余白に一本の折り線を入れれば、そこは方向を示す矢印になる。
「教授。課長」
湯川と新田を呼び、私は説明を始めた。
「袖を通る人影を見つけるだけでは足りません。袖そのものを“反転”させる必要がある。観客に選ばせ、選んだ先で袖を浮かび上がらせるんです」
湯川は首を傾げた。「選択は錯覚を生みやすい」
「錯覚こそが舞台です。錯覚を利用して、袖の奥を逆照射する」
新田は腕を組み、しばらく黙ったあと言った。「客を危険にさらすことは許さない。――だが、従業員が“観客役”を担うことは避けられないだろうな」
「ええ。役を与えなければ舞台は回らない」
私は白に折り線をつけ、ポケットに収めた。舞台の種は、紙一枚で十分だ。
正午過ぎ、会議室に三人が集まった。
湯川は袖の導線図を広げ、「温湿度センサーを配置し直す」と説明した。
「今度は三角形に。風の渦を三つの角度から読む。逆相の信号も拍手に吸収されない帯域に設定する」
「帯域を決めるのは科学だが、響かせるのは観客です」私が応じると、新田が口を開いた。
「安全対策を先に確認する。立ち止まった従業員がいても代替ルートはあるか。気分が悪くなった客を即座に医務室に運べる導線は確保してあるか」
「用意しました」湯川が短く答える。
「よし」
新田は鋭い目を私に向けた。「稔。お前の演出は守りに使え。種を割るな」
「課長。舞台は最後まで割れないほうが美しい。約束します」
三者は互いに譲らず、最後に重なる一点だけを確認した。――安全は演出より上にある。
夕方、私はフロントで白を客に渡した。だが“渡す”のではなく、“客が自発的に持つ”ように仕組んだ。
「お持ちになると、安心できると言われています」
そう囁けば、人は自然と手を伸ばす。余白は人に所有されることで意味を持つ。
黒は配らない。それでも必ず現れる。犯人は黒を置かずにはいられない。角の摩耗した黒がどこかで客の手に渡る。その瞬間を観察すればいい。
尚美は白を胸の中央に、大切に抱えていた。片桐は左胸に押し当て、高見は右手に握りしめた。位置の差は些細だが、舞台人にとっては致命的な伏線になる。人は位置で役を語る。
夜八時。ラウンジに再び客が集まる。
私は合図を出した。手拍子が始まる。だが、今回は一拍休んで半拍ずらす“偽拍”を仕込んだ。
最初は戸惑い。三割の客だけが追従し、七割は迷いを見せる。
――揺らぎが生まれた。
センサーの波形に、袖の風が逆流するような渦が現れた。
「来た」湯川が呟いた。
袖を抜ける“合図持ち”が、偽拍に押し出されるように外側へ退いたのだ。私は舞台の中で深く息を吸った。狙い通り。袖の奥が、初めて観客の手拍子に押されて揺れた。
次の瞬間、扉陰から小さな音が二度。押圧はゼロ。
代わりに、内線が三度、短く鳴った。
湯川は波形を見て言った。「機械→人→機械。三連の合図だ」
「袖の袖の奥に、もう一人いる」私は確信した。合図は一人では回らない。観客をだます舞台は、必ず“裏方”を持つ。
その時、川嶋副支配人がラウンジに姿を見せた。
「合図は舞台を成長させる。危うさは塩だよ」
「塩は観客の舌で決まります」私は即座に返す。
彼は笑い、カートを押す従業員の後ろに回った。把手に微かな染料の痕。角の摩耗と同じ癖。
――袖の袖は可動舞台だ。
私は心の中でそう書き留めた。
私は観客に呼びかけた。
「白を胸の中央、左、右――好きな位置に掲げてください」
即興の演出に客席がざわめく。
三つに分かれた拍のグループ。センサーの風景は三色に塗り分けられ、ただ一箇所だけ無反応域が残った。
「そこだ」私は小さく呟いた。外部から合図が注入されている“袖の外側”が見えた瞬間だった。
新田は無線に「追うな、見ろ」と指示した。
私は観客の目線を無反応域に集めず、逆に拡散させる演出を加えた。目を逸らすことが最大の監視になる。
湯川はセンサーの波形に“体温ではない熱源”を確認した。「人ではない。だが確かに熱がある」
犯人は熱源を使い、袖の奥に“影”を作っていた。
小道具カートの把手、染料の痕跡、黒の角摩耗。
全てが重なったとき、私は舞台のノートに書き込んだ。
「可動袖。合図三連。黒は移動して増殖する」
科学も信頼も舞台も、同じ図を指していた。
舞台は残酷だ。観客に“選ばせる”ことが、最も残酷な優しさだ。
だが選んだと思えた瞬間、人は救われる。
私は新田に舞台を返すと心に決めた。信頼の終幕は、彼が下ろすべきだ。
教授の反合図と、私の演出を重ねれば、舞台監督は次の袖に退かざるを得ない。
控室にもどると、机の上に白紙の束が置かれていた。
どのページも白。だが角度を変えると、極薄の「拍」の記号が浮かび上がる。
最終ページには黒い指紋のような摩耗。
付箋一枚。――「Anotherは、観客の数だけある」
私は深く息を吐いた。
「次の幕で引きずり出す」
そう宣言し、台本を閉じた。?
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