第12話「沈黙の証明」

 白紙の束を、私は机の上に広げた。稔が昨夜、控室の机にそっと置いていったものだ。どのページにも文字はない。だが斜めから光を当てると、紙肌の繊維がわずかに凹み、極薄の「拍」の記号が浮いたり沈んだりする。紫外線を照射すればもっとはっきり見えるだろうが、私はやらなかった。ここで必要なのは、可視化よりも「見えないものが、ある」という事実そのものだ。

 付箋に書かれていた一行――「Anotherは、観客の数だけある」。観客一人ひとりが別の袖になり、別の舞台監督になりうるという宣言のように読めた。科学の言葉に置き換えれば、集団錯覚の再現性に関する仮説である。十分な人数が同一の誤差に反応すれば、それは一つの現実として定着する。

 私はノートを開き、箇条書きを作った。可動袖、熱源、内線三連、黒札の角摩耗。証拠の枠組みは揃っている。足りないのは立証だ。実験で、数字で、誤差を現象に変える。そこまでやらなければ、舞台の真ん中に科学が立つ資格はない。


 扉が二度だけ軽く叩かれ、新田が入ってきた。眠っていない目だが、焦点は合っている。

 「実験をやるのか」

 「やる。袖の外側に“人”がいるのか、“仕掛け”だけなのか、はっきりさせる」

「客は巻き込まない」

 「従業員を“観客役”にする。数は最小限でいい」

 言葉が一度途切れ、新田は私をまっすぐに見た。「……お前、自分が観客にされていることに気づいているか」

 「気づいている」

 「なら、抗え」

 「抗い方なら知っている。数字で抗う」

 新田は短くうなずき、踵を返した。扉が閉まる直前、彼は振り向かずに言った。「俺は、お前が舞台に上がる顔を見たくない」

 私は返事をしなかった。沈黙がうなずいた。


 夜、ラウンジは客を入れず、照明も落とし、実験場へ姿を変えた。床に敷いた配線は最短で、センサーは壁のくぼみに沿って設置した。空調は一定に固定し、風の脈動をできる限り均した。袖の導線には、新しい温湿度センサーを三角形に配置してある。風は角で渦を作る。三角形の三頂点で角度を変えて読めば、渦の中心は自然と割り出せる。

 稔は椅子を三列に並べ、尚美、片桐、高見の三人を中央列に座らせた。表情には緊張が見えるが、手の置き方はきれいだ。職業の訓練は、緊張の出し方さえ整える。私は彼女たちの手首にセンサーを巻き、呼吸の波形と心拍をモニタに映した。新田は出入口の導線を細くし、急病対応の経路を確実に一つ確保した。

 「説明は短くする」私は声を張った。「暗転は三回。最大で一秒に達しない。逆相の揺らぎは最小限。拍手は誘導しない。――何も考えないことは難しいが、考えないでいてくれ」

 尚美が手を挙げた。「教授、これは誰かを傷つけますか」

 「傷つけない」

 即答した。言葉は先に出た。科学者が先に言葉を出すとき、そこにはしばしば後悔が伴う。だが私は後悔を飲み込み、スイッチを指で押した。


 一回目。

 照度が0.9秒で落ち、すぐ戻る。波形は穏やかに揺れただけで、大きな沈みはない。

 二回目。

 周辺視野を先に暗くし、中心視野を遅らせて落とす。視覚心理の癖で、0.9秒が1.1秒くらいに感じられるはずだ。センサーの一角が反応した。袖の角、E-3に小さな熱の斑点が生まれ、すぐに消えた。

 三回目。

 反合図を微量に混ぜ、空間の揺らぎを浅く泳がせた。戻り際に、波形が突如として規則正しい山を描き始める。

 「教授」稔が低く言った。「いる」

 「数字はいると言っている」

 不規則なノイズではない。0.84秒間隔で浅い呼吸の波が重なり、心拍と似た振動が袖の三角点を渡って移動する。人の体温に似るが、人の歩幅とは微妙にずれる。私は鼓動を数え、モニタのカウントと照らし合わせた。違和感は、合っているときよりも強く脳に残る。


 無線が鳴る。

 「内線、短通電。三連」新田の声だ。

 時刻は偽拍に同期している。誰かが、袖の向こうで拍の裏に合図を乗せてきたのだ。

 次の瞬間、モニタの一枚が消えた。推測どおりなら、わざと弱い電磁の揺らぎを基板にかけたのだ。機材は安全のために落ちる。落ちるように設計したのは私自身だ。

 「中止しろ」新田が言った。

 「続ける」私は短く答えた。「落ちた分は別経路で拾う」

 私の手は勝手に動いていた。予備のロガーに切り替え、音声の帯域圧縮を変更し、低周波側を甘くする。ノイズが増えるが、合図は拾える。


 耳の中で、あの囁きが再生される。

 ――教授、あなたも観客ですよ。

 録音の波形を、私は分解した。一次、二次、三次のフォルマント。子音の立ち上がりの角度、母音間の遷移時間、呼気のノイズ。過去に残した川嶋の社内アナウンスのサンプルと重ねる。第一、第二フォルマントのピークは近い。喉の長さ、口腔の容積。合致率は高い。

 だが、完全ではない。下層に別の波が微かに寄り添っている。

 私はそのもう一つを引っ張り上げ、ノイズから剥がした。長い髪の一本を指に巻くみたいに、緩やかに。

 ――教授、あなたも観客ですよ。

 同じ台詞が、別の声帯で、別の角度から発声されている。

 私は保存しておいた尚美のCSR動画の挨拶データを呼び出し、波形を重ねた。口の開き方、語尾の息の量、母音の滞空時間。似ている。似すぎている。

 「教授」稔が私の肩に触れた。

 「分かっている」私は言った。

 似ていることは、同一を意味しない。劣化コピーにも似るし、意図的な「合わせ」にも似る。声は寄せられる。演出の訓練を受けた者なら尚更だ。結論を急ぐのは、科学の死に近い。


 尚美が立ち上がり、深呼吸を二度。

 「胸が苦しい。でも、やめないでください」

 「やめない」私は即答した。

 彼女はうなずき、座り直した。指先は震えていない。震えない指は、舞台で強い。強さはときどき、向こう側に利用される。


 四回目は予定にない。私はあえて彼らに告げず、照度を極薄く落とした。0.6秒。

 戻った瞬間、袖の三角点が同時にわずかに温度を上げた。熱源が二つになった可能性がある。可動カートの上に小さなパネルヒータ、あるいは手のひら大の化学発熱体。発熱量は人間の手の甲より少し低い。だが風の渦に置けば、人の存在に擬態できる。

 「教授、袖の端が短く明滅」新田が報告する。

 扉の陰。音だけ。押圧はない。誰かが「押すふり」をさせた。


 私は稔を見る。稔は私を見るふりをして、客席のほうを見ていた。舞台人の目は、真正面を外すときほど真正面に届く。

 「偽拍を三つ」稔が指を三度軽く打った。

 私は反合図を少し遅らせ、空間の揺らぎを偽拍に繋いだ。客席がないにもかかわらず、空間は拍を持った。拍は物理ではない。だが物理に影響を与える。

 袖の三角点のうち一つが、他の二つにからむように渦を作って沈んだ。

 「そこだ」私は小さく呟いた。


 小道具カートの把手を、この数日で私は何度も見ている。金属の角は磨耗し、角度に癖がある。押す人間の利き手、指の長さ、握力の癖。黒札の角の摩耗と、把手の磨耗は似た線を描く。人は、自分の角を別の角にも刻む。

 私は備品室から新品の把手を持ってきて、古い把手と入れ替えるよう指示を出した。古い把手は私が預かった。指紋は不要だ。角が話す。


 実験は続く。

 五回目、0.7秒。

 六回目、0.5秒。

 短い暗転は忘れられる。忘れられる暗転は、合図の最良の隠れ家だ。反合図はそれを剥がす布。布の端は、数字の手触りに似る。

 内線短通電は、二度、三度、四度。規則は崩れかけ、崩れかけた形で新しい規則を持とうとしている。

 「教授、機材二番、再起動がかかりました」助手の声。

 「戻るまで、一次ログは紙に」

 私はボールペンを口にくわえ、ノートに時刻を走り書きした。科学に紙が勝つ瞬間がある。紙は停電しない。


 ふいに、静電気の匂いが濃くなった。

 暗転。

 0.9秒より少し短い。

 戻る。

 私は本能的に袖の奥に視線を投げた。何もいないはずの場所に、微かな温度の山が立ち上がり、すぐに崩れた。

 「教授、今のは」

 「熱源のショートだ」

 誰かが焦っている。焦りは、舞台の裏で最も致命的だ。焦りは拍に乗らない。拍から外れた動きは、素人でも目にする。


 稔が観客のいない客席に向かって静かにお辞儀をした。

 「観客の皆さま。――白は、今夜もあなたのものです」

 彼の声は、誰に向けたものでもない。だが、確かに届いた。届く音は、測れない。私は測れない音に、負けたくはなかった。


 ここで切り上げるのが正しいのだろう。私はそれを知りながら、もう一度だけ暗転を落とした。

 0.9秒。

 戻った瞬間、録音機のランプが二度点滅した。オーバーフローだ。

 音は飽和する。飽和の手前に、真実が小さく挟まることがある。

 私は飽和した波形の裾を摘み、上下を切り、中央だけを薄く拡大した。そこに、あの囁きが重なっていた。

 ――教授、あなたも観客ですよ。

 今度は、三つの層があった。

 一つは川嶋。

 一つは尚美。

 もう一つは、加工。

 合成ではない。三人目の声が、かすかに、囁きの体裁を真似ていた。

 私はハウスキーピングの連絡網から、片桐と高見の朝礼音声の断片を取り出し、重ねた。完全一致はない。だが「上あごに息を当てる癖」が共通する者がいる。

 名前は書かない。書かない選択もまた、科学だ。


 新田が私の肩越しにスクリーンを見た。

 「満足か」

 「満足は不要だ」

 「証明は」

「袖の外側=可動袖+熱源+内線三連であること。――ここまでは数字で着地した」

 「人は」

 「まだ数字になっていない」

 彼はうなずき、静かに言った。「舞台は、お前の数字を待っていない」

 「知っている」

 稔が間に入り、「数字は幕間に読むものです」と笑った。私は笑わない。


 機材を落として、ログをバックアップし、センサーを外し、扉を施錠した。終わりに近い終わりは、最も事故が起きやすい。身体が緩むからだ。私は意識して背筋を伸ばし、手すりに触れず、段差を確かめながら階段を降りた。


 控室に戻ると、机の上に古い把手が二つ並んでいた。どちらも同じ型だが、角の磨耗が違う。重ねると、ひとつは黒札の角と線を合わせ、もうひとつはわずかに外へ逃げる。

 私は、逃げるほうの把手を指に挟んで、軽く力をかけた。指が自然にずれる。癖は隠せない。

 封のしていない小さな封筒が、把手の横に置かれていた。差出人名はない。中には白が一枚。何も書かれていない。

 角を持って斜めにすると、極薄の線が浮いた。稔の白の線は、一直線だ。この白の線は、途中で小さく折れている。拍を二度外し、一度戻す線。袖の向こうにいる誰かの手癖だ。

 私は白を封筒に戻し、引き出しにしまった。証拠というより、付き合いが始まった合図のように思えた。


 風呂に入らずに寝る夜が、どれだけぶりか思い出せない。ベッドの上で目を閉じても、波形は瞼の裏に現れ続けた。フォルマント、包絡線、ノイズフロア、サイドバンド。音を分解し、別の音に重ね、また分解する。科学は時に、音の輪郭を削る。削りすぎると、言葉が死ぬ。私は死んだ言葉を復活させる術を持たない。復活は拍手にしか起きない。

 携帯が震え、画面に「非通知」とだけ出た。

 「湯川だ」

 ――教授、あなたも観客ですよ。

 合成ではない。生の声に近い。

 私は切らなかった。

 「観客の役は、演者を完成させることだ」

 返事はない。

 「演者は、舞台を閉じる責任を持つ」

 沈黙。

 「あなたは、どちらだ」

 雑音の中で、誰かの息が浅く笑った。

 通話は切れた。


 朝。窓の外の色が、冬でもないのに薄かった。ホテルに戻ると、ロビーの匂いは昨夜より少し乾いていた。香りの濃度が一段下げられている。尚美の仕事だろう。客が息苦しさを感じない濃度を見極めるのは、熟練の業だ。

 私はフロント脇で彼女を呼び止めた。

 「昨夜、ありがとう」

 「いえ」

 「声の分析で、君に似た波が出た。――似ているだけだ」

 「似せることはできます」

 「君が似せたのか」

 「似せられる人は多いです」

 彼女は笑わなかった。笑わない顔は、どんな嘘より正直だ。

 「君を信じたい」

 「信じるかどうかは、課長が決めます」

 彼女はそう言ったときと同じ調子で、「教授も」と付け加えた。「教授は、数字を信じますか」

 「数字は、最後に残るものだ」

 「最後の前に、少しだけ人を残してもらえますか」

 私は頷いた。頷くことが、彼女の求めた応答かどうかは分からない。


 昼、湯気の立たないスープを口にしながら、私は古い把手を指で転がした。角の磨耗の線が、頭の中の黒札の角と何度も重なり、何度も外れた。外れるたびに、別の名前が浮かんでは沈んだ。科学者の脳にも、名札を急ぐ衝動がある。急ぐことは誤りに直結する。私はスプーンを皿に戻した。音は立てなかった。


 午後のミーティングで、稔が白紙の束を私に押し返してきた。

 「返します。台本は役者に持たせるべきです。私は袖で合図を拾う」

 「拾う偽拍は、どのくらい持つ」

 「三回」

 「根拠は」

 「三回目で、観客は“自分の拍”だと錯覚する。錯覚の強度が、合図に勝ち始めるのがそこです」

 「数字にすると」

 「教授に任せます」

 彼は軽く笑い、コーヒーに砂糖を入れ忘れたまま飲み干した。砂糖の入っていない甘さは、舞台の終幕に似ている。拍手が去ったあとに残る甘さだ。


 新田は袖のセンサーの角度をさらに数度だけ傾ける計画を持ってきた。「“袖の袖”の渦を読みたい」

 私は同意し、「風の地図」に微細な補正係数を加えた。空調のわずかな脈動がまだ残っている。完全を目指す必要はない。完全が舞台を殺す。

 「教授」新田が言う。「終わったら、うちの連中に“数字の読み方”を教えてやってくれ」

 「喜んで」

 「俺にもだ」

 「あなたは数字より、人を見る」

 「たまに数字に助けられる」

 私たちは短く笑った。笑いは、薄い薬だ。


 夕刻、稔が「公開の終幕練習」をもう一度やると言い、私は反合図の位相を少しずらして合わせた。観客は白を胸に持ち、三つの位置のいずれかに掲げる。拍は三色に分かれ、袖の渦は一つだけ、色を失った。そこが「外側」だ。

 私はもう追わない。追えば細くなる。見る。見続ける。渦は太る。太った渦は、自分で名札を欲しがる。

 その夜、名札は現れなかった。

 代わりに、私の机の上に新品の把手がもう一つ置かれていた。封筒も、付箋もない。角は当然、まだ何も語らない。語り始めるまで、私は待つことにした。待つことが、科学の仕事の半分だ。


 深夜、最後の巡回の前に、私はもう一度だけ録音機を回した。回して、背を向けた。背を向けるのは、敵意ではない。無関心でもない。

 ――教授、あなたも観客ですよ。

 声は来なかった。

 代わりに、ラウンジの奥で、短く拍手が一度だけ鳴った。

 誰もいないはずなのに、拍手が鳴った。

 私は走らなかった。

 ゆっくり歩いた。

 拍手は二度と鳴らなかった。

 床の上に、白が一枚、落ちていた。

 角は折れていない。

 線はない。

 完全な余白。

 私は屈み、白を拾い上げ、胸のポケットに入れた。

 余白は、舞台の前に立つ科学者にも等しく与えられる。書くのは私ではない。

 私は照明を落とし、扉を閉め、静かな暗闇の中で三を数え、四を飲み込み、五を忘れた。忘れることもまた、証明の一部だ。

 数字は、まだ沈黙している。

 沈黙は、次の幕のためにある。

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