第10話「袖の地図」

 ラウンジの静けさは、夜の終わりにしか生まれない種類のものだった。片づけられたグラスが微かに鳴り、冷えた空調の風が厚手のカーテンの裾を撫でていく。私は巡回の足を止め、ロビー時計の秒針がちょうど十二をまたぐのを見届けた。規則正しい音の中にも、昨夜から続くざわめきが混じっているように感じる。

 七秒の暗転。1.9秒の瞬断。0.9秒の違和感。そして湯川の“反合図”。どれも客の前で起き、客の前で収束した。保安課長である私の役割は、客が家に帰ってからも“安心”だけを思い出すように導線を仕立てることだ。その導線の一部に、今の私自身が絡まって歩みを止めている。

 照明の光が木目に滑っていく。視界の端で、尚美が立ち止まり、二人の客に小さく会釈した。笑顔が出るまで0.4秒。数字にすると味気ないが、その0.4秒は今や、このホテルの秩序のようにも見える。訓練で得たものだ。だが、訓練でこそ人は仮面を磨く。私は胸の内でその矛盾を撫で、撫でる手つきに自分でも嫌気が差した。


 保安課の控室にもどると、机の上に湯川が用意した袖の導線図が広げられていた。温湿度の点が細かく並び、人の呼吸や体温の移ろいが淡い色で帯になって伸びている。

 「教授、これは地図というよりも……」

 「風景だ」湯川は椅子の背にもたれ、疲れを隠す手間を省いた表情で言った。「袖を通る“風”の絵だよ。空調の癖を消して、人の通過だけが残るよう調整した。人は空気の壁をなぞって歩くものだ。壁の角で渦が生まれる」

 「渦が袖を形づくる」稔がソファの腕に尻を半分だけ乗せて言った。「舞台の袖も同じです。誰も見ていないところほど、人はまっすぐ歩かない」

 私は図面の一点を指で押さえた。「E-3通路のここ。昨夜の0.9秒で揺れが出たのもここだ。ここに“誰か”が立った」

 湯川は首を横に振る。「人の形の風だ。だが、人だけとは限らない。衣服の布だけでも渦は描ける。段ボールでも、幕でも、布団でも」

 「布団は運ばないでほしいな」稔は乾いた笑いを漏らした。「でも、教授。袖で“声”は拾えましたか」

 「囁きは記録に残っている。『教授、あなたも観客ですよ』。加工音声か、狭い空間で反響させたか。どちらにせよ、私の名前を呼んだ。私に“場所を与えた”つもりだろう」

 「場所は役を連れてくる」稔は肩をすくめた。「役を与え、合図を与え、客席に返す。監督は、観客の中に“監督ごっこ”を生ませたがっている」

 「ごっこで済めばいいが」私は地図を畳んだ。「今日は計画どおり“袖の地図”を敷く。シフトは最小限。従業員の導線は一本化。――舞台は舞台で進めてくれ。だが、客の前で種を割らないこと。それだけは守ってほしい」

 「当然です」稔が笑い、湯川はわずかに顎を引いた。


 会議を終えて廊下に出ると、磨かれた床に自分の靴音が吸い込まれていく。隅の観葉植物の葉が少し乾いている。ハウスキーピングが通ったばかりだろう。私はフロント前で足を止め、尚美に声をかけた。

 「少し」

 彼女は小さく会釈し、裏の応接に回った。

 「昨日の協力、助かった」

 「いいえ。私が助けてもらってばかりです」

 「……0.4秒は、体に負担がないか」

 「大丈夫です。笑顔は筋肉です。鍛えるほど、お客様の前で迷わなくなる」

 迷わない。それは接客の理想であり、犯罪者の理想でもある。私はその言葉を飲み込み、別の問いに置き換えた。

 「昨夜の“反合図”――呼吸が戻る感じがしたと、教授に言ってくれたな」

 「はい。自分の拍に戻ったと。……課長、私は“信じてください”と言う立場ではありません。ただ、信じたいと思っていただけるなら、邪魔はしません」

 この言い方に、私は救われる。だからこそ危うい。犯人が脚本を書くなら、ここに台詞を置くだろう。私がそう思うとき、私の中で“尚美を守る”と“尚美を疑う”が同じ重さで揺れる。

 「ありがとう。今夜は導線が変わる。無理はさせないが、何か見えたら、いつも通りにメモに残してくれ」

「はい」

 笑顔は0.45秒。疲れが微かに乗っている。私はそれを見た自分を責め、同時に役立つかもしれないと記憶に付箋を貼る。仕事はいつでも矛盾でできている。


 午後、片桐と高見のシフト前点検に同行した。備品室の金庫、扉の蝶番、ストッパーのクッション、電話の通電痕――彼女たちの手つきは正確だ。

 「片桐。例の物置の内線、今はどうだ」

 「一度だけ、短く……。昨夜です。誰かが受話器を持ち上げて、すぐ戻したような……」

 「誰かは見ていない」

「はい。……すみません」

 謝らなくていい。見えないという事実は、嘘ではない。

 「高見。指は」

 「だいぶ治ってきました。……課長、私、押しました。あのラッチ。言われたとおりに。染料が残りました」

 「押したのは君の指だ。押させたのは君ではない」

 「でも、私が扉の前に行ったから」

 「行くように導線を作られた」

 彼女は俯き、うなずいた。涙は落とさない。泣かない人は強い。その強さが、舞台では何より危ない。


 夕刻、川嶋副支配人と鉢合わせた。ネクタイの結び目は今日も乱れず、靴の先は磨き上げられている。

 「浩介君。袖の地図、うまくいきそうかい」

 「“風景”はできました。あとは人が風になるかどうかです」

 「風に向かって歩ける人は少ない」

 「向かわせる人は、さらに少ない」

 彼は微笑んだ。

 「私は舞台に上がらないよう努めている。君の仕事の邪魔はしない」

 「上がらないように努める行為は、ときに舞台の中心に立つことになる」

 「それは演出の問題だよ」

 答えになっていない。答えになっていないのに、彼の言葉はいつも耳に残る。残る言葉は、舞台の台詞に似ている。私は目だけで礼をして通り過ぎた。背中に視線を感じない。感じない視線ほど、強く残る。


 夜が落ちる。

 袖の通路に、湯川のセンサーが据え付けられていく。温度、湿度、微かな風速。空調は下げられ、空気の脈動ができる限り均される。稔は舞台袖でスタッフに合図の流儀を叩き込んでいる。合図は短く、命令は柔らかく、嘘は使わない。嘘をつくと、舞台は観客に反撃されるという。

 私は全体の導線をもう一度確認し、無線のチェックを終えた。準備は整った。あとはその瞬間が来るのを待つだけだ。待つ時間がいちばん心を削る。刑事時代から何度も知っている感覚だが、ホテルでは削れた心がすぐに客の前に出る。磨かれた床は、疲れた心をよく映す。


 十九時を回る。ラウンジでは軽食のトレイが往来し、客の足取りは一定だ。稔の公開訓練で配られた白は、今日も幾人かの財布の中にある。白は“無事の証拠”という物語を手に入れた。物語は、武器にも盾にもなる。

 無線が小さく鳴った。湯川からだ。

 「袖、安定。風は静かだ」

 「了解」

 私はE-3通路の角に立ち、壁の冷たさを背中に受けた。角は安全だ。視界が狭まる代わりに、足音の反響がよく聞こえる。

 ――静電気の匂いが、微かに喉の奥をかすめた。

 私は息を半分だけ吐き、半分を残した。


 暗転。

 0.7秒。

 すぐに戻る。

 ラウンジのざわめきは途切れない。気づいたのは、従業員の一部だけだろう。

 無線が鳴る。「袖、通過――人影一。速度一定。温湿度プロファイル、女性成分優位」

 「誰だ」思わず声が硬くなる。

 「推定一致――山岸尚美」

 喉の奥が冷えた。

 「位置、復唱」

 「E-3入り口から盤右まで、直線。停止なし」

 私は角を離れ、通路に出た。そこに、尚美がいた。

 「尚美さん」

 彼女は驚き、すぐに会釈した。

 「課長。非常灯のLEDが一瞬ちらついたので、確認に」

 私は彼女の手を見た。手ぶら。爪は短く整えられ、指に染料の跡はない。呼吸は浅いが、乱れてはいない。

 「許可は」

 「……すみません。すぐ戻るつもりで」

 私は無線のスイッチを親指で押した。「袖、視認。対象は山岸。両手空。――教授、圧力は」

 湯川の声が返る。「盤右、押圧なし。扉の陰、音のみ。……合図は出た」

 稔が割り込む。「課長、観客の呼吸は揺れていません。0.7は“忘れさせる”暗さです」

 私は尚美を見た。彼女は自分の胸に手を当て、浅く息をしながら言った。「課長。私を疑うのは業務です。私は邪魔しません。ただ、ここで話すより、フロントに戻ってもよろしいですか」

「戻れ。――ありがとう」

 ありがとうは出てしまった。出るべきか迷っているうちに、出てしまった。礼は、言った側を楽にする。私はその自覚を胸に押し込んだ。


 控室にもどると、湯川が袖の地図に新しい線を重ねていた。通過の帯は確かに尚美に一致している。汗の蒸散、呼気の湿り、歩幅、速度。

 「一致率、八二%」

 「残りの一八は」

「袖の“布”だ。人を装う布の風景が混じっている。誰かが前を通って布を振ったか、背後で幕を揺らした」

 稔が指で小さなルートをなぞった。「袖の袖、ですね。袖の中にもう一つの袖を作られた」

 「結論としては」私は言った。「尚美は“通った”が、“押していない”。袖には“尚美の影”が二つあった。――影はもう一人だ」

 湯川が黙って頷いた。「合図は、袖の奥で出ている。内線の短い通電も、同時刻に記録がある。誰かが“時間”を渡している」

 「その誰かが、監督か」

 稔は首を傾げる。「監督は指示を出す人とは限りません。観客の拍手が監督になる夜もある」


 扉がノックされた。片桐だ。

 「課長……。副支配人が、私にこれを預けました」

 差し出された封筒の中には、黒が一枚。角に見覚えのある摩耗。

 「どこで」

 「エレベーターホールで。“安心のために持っていてください”と」

 安心のために黒を渡す。言葉として矛盾している。矛盾を成立させるのが、演出の腕だ。私は黒を封筒に戻し、鍵のついた引き出しに入れた。

 「ありがとう。――片桐、もう一つ。物置の内線、短い通電は誰でもできる。だが“誰かに見つからずに”やるには、手がかりの少なさに甘えるしかない。甘えは必ず痕を残す。もし些細な変化でも、感じたら伝えてくれ」

 「はい」

 彼女は申し訳なさそうに会釈し、退いた。


 私は一人になりたかったが、一人になってはいけない夜でもあった。椅子に沈むと、長年使ってきた筋肉が沈黙を歓迎するのを感じる。そこへ、内線が鳴った。番号は表示されない。

 「新田です」

 ――「課長、あなたの信頼が舞台を完成させます」

 加工された声。性別は分からない。発音は正しく、息の音が薄い。

 「誰だ」

 返答はない。

 「“Another”は何だ。もう一つの合図か。もう一つの観客か」

 沈黙。

 「信頼を試す舞台は、最後に客席を切り離す。切り離された客席は舞台を憎む。――それがお前の狙いか」

 音は途切れ、通話は切れた。

 私は受話器を置き、掌を見た。汗は少ない。怒りより、冷えが強い。怒りは相手に形を与えるが、冷えは自分の形を奪う。私は自分の形を取り戻すために立ち上がった。


 川嶋のオフィスに向かう。ドアは開いていた。彼は窓の外を眺め、都心の灯を見ていた。

 「副支配人。――黒を、片桐に預けたそうですね」

 「“安心の印”だよ。彼女は誠実だ。誠実な人は、印を持つと安心する」

 「黒は決めつけだ。安心は白でしか作れない」

 「白は、余白だ。余白は、君の課の仕事を増やす」

 「仕事は増えていい」

 彼は微笑をわずかに深くした。「君は、信じたい相手を選んだかい」

 「選ぶ前に、選ばせようとしている奴がいる」

 「それが演出だ」

 彼はいつも通りの台詞で、いつも通りの温度を保つ。私は一歩だけ近づいた。距離は武器になる。

 「副支配人。今夜、0.7秒があった。袖に“尚美の風景”が二つできた。――もう一つは誰だ」

 「風は名前を持たない」

 「名札はあなたが配る」

 「私は舞台に上がらないよう努めている」

 この往復は、今日で何度目か。私は彼の言葉に網をかけるのをやめた。網は、獲物を傷つけるし、投げるこちらの腕を疲れさせる。


 控室に戻ると、湯川と稔が待っていた。

 「課長。袖のセンサー、わずかに位置をずらします」湯川が言う。「“袖の袖”の渦が読めるよう、角度を変えたい」

 「任せる。――稔。公開の“終幕練習”は続けられるか」

 「できます。観客が“自分の拍”で手を打つように仕向けます。手拍子は舞台のテンポを奪い返す最古の手段です」

 「それで行こう」

 私は椅子の背からコートを取り、腕に掛けた。

 「どこへ」稔が目だけで問う。

 「フロント」

 「尚美さん?」

 私は答えず、廊下に出た。


 フロントの背面は、喧騒の表舞台と違って静かな仕立てだった。スタッフが心を整えるための薄い明かり、行き交う人の影が疲れを映さない程度の反射。尚美は端末の前で、ログとメモを照らし合わせていた。

 「尚美さん。E-3のLEDは、どう傾いていた」

 「左がほんの少し暗く。肉眼では分からない程度です。……私、気になり始めると、全部見えるまで止まらなくて」

 「止まらないのは長所だ。――内線の件、何か」

 「短い呼び出し音が、二度。十九時十分と、十九時二十三分。二度目のほうが、恐らく“合図”です」

 「なぜ」

「私の胸が、一度だけ高くなったから」

 私はその答えを否定できない。身体の記憶は、数字より賢いことがある。

 「尚美さん」

 「はい」

 「君を信じたいと思っている。……が、業務として疑う」

 「分かっています。どちらも仕事です」

 彼女はまっすぐに頷いた。頷きの角度が美しい。美しい角度は、訓練の賜物であり、覚悟の形でもある。私は礼だけして背を向けた。礼を言う相手を間違えてはいけない。間違うと、礼が刃になる。


 深夜、袖のセンサーがわずかに新しい渦を描いた。空調の脈動は均されている。人の影が、扉の陰でいったん止まり、また動いた。

 「誰だ」私は無線に落とした。

 「識別不能。――だが、身長の推定は一七五前後。歩幅は大きくない。靴音が軽い」

 川嶋の身長はそれに近い。だが彼の靴は、軽くない。靴の軽さは、歩く意志の軽さではない。選ばれた靴は重さを隠す。

 「追うか」稔が問う。

 「追わない。今は渦を太らせる。太った渦は、やがて“名札”を欲しがる」

 私は返し、袖の図を見た。図は図として、冷たく賢い。


 午前三時を回ったころ、空気がやっとやわらかくなった。従業員の肩の力が抜け、床の光が眠たげにたわむ。この時間帯だけ、ホテルは客席ではなく舞台そのものになる。

 私は窓の外を見た。街の灯が点になって連なっている。点と点のあいだに、別の点が灯る。内線のランプだった。

 受話器を上げる。

 「新田だ」

 ――「課長、舞台はもう一つあります」

 「ああ。知っている」

 ――「袖の外側。客席のさらに外」

 「外で何をする」

 ――「“信頼”のリハーサルを」

 通話は切れた。

 私はしばらく受話器を持ったまま立ち尽くした。信頼のリハーサル。舞台の外で、客席のさらに外で。ホテルの外で。

 外に出れば、規則は薄くなる。薄い規則に、濃い誘惑が入り込む。私は受話器を置き、コートに袖を通した。


 エントランスの外は、潮風に似た匂いがした。川筋から上がってくる夜気は、街の匂いを少し洗い流してくれる。タクシーが一台だけ、ぼんやりと停まってドライバーが仮眠を取っている。

 誰かが立っていた。

 街灯の影が足元に一本、真っ直ぐに伸びている。

 尚美ではない。片桐でもない。高見でもない。

 川嶋だった。

 「こんな時間に、どちらへ」

 「外側の袖を見に」

 「袖は、内側にしかないよ」

 「外側にも作られます。外で“信頼”の稽古をして、中で本番をする」

 彼は笑った。笑いは短く、温度は一定だ。

 「浩介君。君はここを守る。私はここを売る。役割の違いだ。売るためには、たまに“危うさ”が必要だ。完璧だけでは人は集まらない」

 「危うさは、見せかけでなければならない」

 「見せかけで、人は傷つく」

 彼は少しだけ肩をすくめた。

 「君は、誰を信じたい」

 「今夜は、君ではない」

 「残念だ」

 彼は踵を返して館内に戻った。私はその背中を見送らなかった。背中は、見れば追う。追えば、職務が感情に乗る。感情は導線を乱す。


 夜明け前、袖の地図は一枚増えて、渦が二つ太った。湯川は無言で頷き、稔は小さな拍手を一度だけ打った。

 「課長」

 稔が言った。「今夜の“終幕の練習”、客席の手拍子、もう一段強くします」

「頼む」

 「尚美さんに“最初の一拍”をお願いしたい」

 私は短く考え、うなずいた。彼女の一拍なら、客はすぐ拾うだろう。拾わせすぎないことだけ、気をつけるんだ――と言いかけて飲み込む。舞台は、任せると決めた相手に任せきらないと、毒になる。


 シフト交代の時間、私はフロントの裏で尚美を呼び止めた。

 「今夜、手拍子の先導を頼みたい」

 「はい」

 彼女は迷いなく答えた。

 「尚美さん」

 「はい」

 「あなたを信じたい」

 「ありがとうございます。……信じるかどうかは、課長が決めてください」

 彼女はゆっくり笑った。笑いは0.42秒。疲れをごまかす笑いではない。勝手にそう思い込みたくなる。思い込みは、犯人の最良の味方だ。自戒とともに私は頷いた。


 その夜、白は再び客席に配られ、湯川の反合図が薄く空間に撒かれ、稔は手拍子の初手を尚美に託した。

 3、2、1。

 パチ。

 一瞬の静寂。

 パチ、パチ。

 拍が広がる。客席がテンポを取り戻す。

 そのときだった。

 袖の通路で、センサーが一つだけ、異常な落ち込みを示した。温度ではない。湿度でもない。風でもない。

 ――“気配”。

 湯川が首をかしげ、「未知の変数だ」と呟いた。

 私は無線を握り、短く指示を出した。「E-3、全線注視。――誰も追うな。見ろ」

 追えば、渦は細くなる。見ることで、渦は太る。太った渦には、やがて名前がぶら下がる。私はそれを幾度も見てきた。

 拍手は続く。客席が舞台を手に戻している。

 私は吐息を静かに吐き、しばらくその音に身を預けた。


 拍手がやみ、客の笑い声が帰っていく。夜はまた、ホテルの内側に沈む。

 控室に戻ると、内線がまた鳴っていた。私は受話器を取らず、しばらく鳴らせておいた。

 鳴りやんだ。

 私は受話器を取り、こちらから番号を押した。表示のない“外側の袖”へ。つながるはずのない回線に、わずかなノイズが乗った。

 「新田だ」

 ――「課長、舞台はあなたの決断を待っています」

 相手は、期待のない声で言った。

 「決断は、舞台の外でする」

 ――「では、客席で」

 「客席でもない。――裏口だ」

 私は通話を切った。

 裏口の扉は、冷たい金属の匂いがする。私はそこに立ち、手のひらで冷たさを確かめた。裏口での決断は、いつも孤独だ。孤独でなければ、決断は濁る。

 扉の向こうに、人の気配が一つ。

 私は深く吸い、ゆっくり吐いた。

 扉を開ける前に、もう一度、呼吸を二拍に分けた。

 長い夜は、まだ終わらない。

 終わらせるのは、こちらだ。

 信じるという選択は、誰のものでもない。

 今夜は、私のものだ。


(第10話 了)

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