第8話 快楽の檻に囚われて
あの夜から、私たちは一線を越えた。
──一度きりで終わるはずだった。
少なくとも、理性ではそう思っていた。
けれど、繁和の
「会える?」
というメッセージが届くたび、私は彼の妻の影を思いながらも、返信を止められなかった。
今夜は私の部屋。
すすきののネオンが窓越しに滲む、狭いワンルーム。
彼の唇が触れるたび、妻の視線が脳裏をよぎる。
それでも、彼の熱を拒めなかった。
「ほら……もっとこっちを見ろ」
覆いかぶさった彼が、私の顎を軽く持ち上げる。
視線を絡めたまま、深く押し込まれ、息が詰まる。
彼の妻にはできない、この熱。
この時間だけは、彼は私のものだ。
逸らせない。
逸らしたら、彼が離れてしまいそうで。
外では、夜風が窓をかすかに揺らしている。
色づき始めた銀杏の葉が、風に乗って視界をかすめた。
静かな夜の気配とは裏腹に、部屋の中は熱く湿った空気で膨れ上がっている。
彼が奥へ沈み込むたび、甘い快感と一緒に、胸の奥で黒いものが膨らんでいく。
──この人を、私だけのものにしたい。
奥さんのもとに帰る彼を想像するだけで、喉が焼けつくように苦しくなる。
ベッドの上だけは、彼は完全に私のものだ。
だからこそ、ベッドを離れたときの背中が、どうしようもなく憎らしい。
会うたびに、私は彼の中に自分の痕跡を刻みつけた。
爪跡、香水の残り香、耳に残る囁き──どれも、奥さんには真似できないはずのもの。
そして彼もまた、私の行動を縛り始めた。
「他の客にはあまり笑うな」
「連絡はすぐ返せ」
命令のようなその言葉の中に、濃い所有欲が滲む。
それを聞くたび、胸の奥に奇妙な安堵が広がった。
まるで、それが私の存在価値の証明であるかのように。
──私たちはもう、互いを手放せない。
けれど、その心地よい檻が、静かに泥沼へ沈んでいく音を、
この時の私はまだ聞き取れていなかった。
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