第9話 涙と笑みの暴露の夜
嵐の前の静けさは、すすきのの夜を裏切るように訪れた。
その夜、店内は珍しく静かだった。
ドアベルが鳴く。
涼しい夜風がひと筋、足元を抜けた。
中折れハットのヒロシが入ってくる。
その横に、見覚えのある女性。
ベージュのコート、肩までの黒髪、整った輪郭。
繁和のスマホの待ち受けで何度も見た顔──奥さんだ。
「こんばんは、貴代美さん」
ヒロシの声は妙に弾んでいる。
「俺みたいな年寄りには、お前みたいな女が必要なんだ。
昔、取り逃がした女の目がお前とそっくりでな。」
その言葉に、背筋に冷たいものが走った。
彼の視線は、獲物を逃がさぬ肉食獣のようだった。
奥さんは何も言わず、まっすぐに私を見た。
その視線の硬さに、胸の奥がざわつく。
カウンター席に二人を案内し、ウーロン茶とロックグラスを置く。
氷が静かに沈む音のあと、ヒロシが口を開いた。
「なあ奥さん、この前の話……覚えてるか?」
奥さんは小さくうなずく。
そしてヒロシは、ゆっくりと私へ視線を向け、言葉を落とした。
「俺、この目で見たんだ。
貴代美さんと繁和が、二人でホテルに入っていくところを」
空気が一瞬で凍りつく。
奥さんの瞳が揺れ、唇が震えた。
「……本当、なんですか」
掠れた声。
答えようとした瞬間、奥さんの目に涙が滲み、頬を伝って落ちた。
「ごめんなさい」
それだけ言い残し、奥さんは席を立つ。
ヒロシが呼び止めかけたが、彼女は手を振って制し、ドアを押し開けた。
外から流れ込んだ夜風が、色づいた銀杏の葉の匂いをかすかに運んでくる。
背中が見えなくなるまで、私は何も言えなかった。
ただ、足元から崩れていくような感覚だけが残る。
沈黙を破るように、ヒロシが低く笑った。
「……俺に任せてくれれば、穏便に済ましてやるからさ。
今度、うち来なよ。
いいだろ?」
グラスの中の氷が、ゆっくりと音を立ててとけていく。
私は視線を落としたまま、返事を飲み込んだ。
──即答できなかった。
その一拍の迷いが、胸の奥に小さな棘を残したまま、抜けずに刺さっていた。
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