ぼくのご主人様がいなくなった日
@Shibaraku_shiba
ぼくのご主人様がいなくなった日
1.帰ってこないご主人様
その日、空はきれいなオレンジ色に染まっていた。
ぼく――名前はポチ。どこにでもいる雑種犬だ。けれど、ぼくにとって世界で一番大切なものがいる。
それは、ご主人様。
優しい声で「ポチ、ただいま」って頭を撫でてくれる。毎日散歩に連れていってくれて、ご飯も用意してくれる。ぼくにとっての太陽みたいな存在だ。
だから今日も、玄関の前でしっぽをぶんぶん振って、ご主人様が帰ってくるのを待っていた。
時計なんて読めないけど、夕焼けのにおいと、近所の子どもたちの声が帰宅の合図。いつもなら、ちょうどこの時間にドアがガチャッと開いて、ご主人様が「ただいま」って入ってくる。
――けれど、その日は違った。
いつまでたっても、ドアは開かなかった。
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2.不安の夜
最初は「少し遅いのかな」と思って、我慢して待った。
でも夜になっても、ドアは静かなままだった。
ご主人様の足音もしない。車のエンジン音もしない。
ぼくの胸の中で、じわじわと不安が大きくなっていった。
「クゥン……クゥン……」
思わず声が漏れる。
ぼくはソファの上に飛び乗り、窓の外をのぞいた。道路には、車のライトが流れている。けれど、どれもご主人様のものじゃない。
夜が更けても、家は静かなままだった。
その瞬間、ぼくは決意した。
――ご主人様を探しに行こう。
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3.冒険のはじまり
窓から外へ飛び降りるのは危険だから、ぼくは庭の隅のフェンスをよじ登った。
夜風が冷たい。でも、そんなの関係ない。鼻をひくひく動かし、ご主人様のにおいを探す。
道路には、車のにおい、人間のにおい、食べ物のにおいが混ざり合っている。けれど、その中に確かにご主人様のにおいがあった。
「ワン!」
ぼくは声を上げて走り出した。
最初に向かったのは駅。
ご主人様はいつも電車で帰ってくるから。駅に行けば会えるかもしれない。
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4.駅で出会った猫
駅前は夜でもにぎやかで、いろんなにおいが渦巻いていた。
人混みの中をくぐり抜けて、改札の前で待つ。けれど、ご主人様の姿はどこにもなかった。
「おやおや、こんな時間に犬とは珍しいねぇ」
声がして、振り返ると、一匹の黒猫がいた。
鋭い目をしているけれど、どこか飄々としている。
「ぼくのご主人様、帰ってこないんだ。ここに来ると思ったのに……」
「ふむ。人間なんて気まぐれだ。電車が遅れてるのかもしれん」
「遅れてる……?」
ぼくにはよくわからない言葉だった。けれど、猫はしっぽをゆらしながら続けた。
「この時間なら、駅前のバス停も見てみるといいさ。人間ってのは、道が混んでると、電車よりバスを使ったりする」
「ありがとう!」
ぼくは頭を下げ、走り出した。
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5.バス停の混乱
駅前のバス停には、人がたくさん集まっていた。
どうやら、大きな事故か工事で道が混んでいるらしい。人々は「渋滞だ」「全然進まない」と口々に言っていた。
ぼくは必死に耳をそばだてる。
ご主人様の名前は出てこない。だけど、においを追うと確かにここを通っている気がした。
けれど、その先でぼくは迷ってしまった。
においが車の exhaust や油のにおいにかき消され、どこへ向かえばいいかわからなくなったのだ。
「ワン……ワン!」
声を上げても、ご主人様は現れない。
胸の奥がぎゅっと苦しくなった。
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6.雨の中の迷子
さらに悪いことに、空から雨が降ってきた。
冷たい雨粒が毛を濡らし、においもどんどん流されていく。
ぼくは必死に走り回った。駅の裏道、コンビニの前、商店街。
でも、ご主人様はいなかった。
――もしかして、本当に消えてしまったの?
そんな不安が胸をしめつけた。
だけど、その時。
どこか遠くから、聞き慣れた声が響いた。
「ポチー! ポチー!」
ご主人様の声だ。
7.再会の瞬間
雨音の中、その声ははっきりとぼくの耳に届いた。
――ご主人様だ!
ぼくは全力で声のする方へ走った。
雨で視界がにじんでも、耳と鼻が導いてくれる。
角を曲がったその先、傘を差しながらびしょ濡れになっている人影。
「ポチ!」
間違いない、ご主人様だ!
ぼくはしっぽをちぎれそうなほど振りながら飛びついた。
泥で汚れても、服を濡らしても、ご主人様は怒らない。両腕でぎゅっと抱きしめてくれた。
「心配かけてごめんな……ポチ」
その声に、胸がじんわり温かくなった。
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8.ご主人様の事情
雨宿りのために近くのバス停に入り、ご主人様は事情を話してくれた。
どうやら仕事の帰り道、大きな事故で道路が完全に止まってしまったらしい。
「電車も混んでてさ……。仕方なくバスを乗り継いだんだけど、どこも渋滞で全然進まなくて」
ご主人様は苦笑した。
ポケットからスマホを取り出し、ぼくに見せる。画面には「電車遅延」「大渋滞」という文字が並んでいた。
「連絡したくても、ポチには電話できないもんな」
「ワン!」
ぼくは思わず鳴いた。
そんなの関係ない。帰ってきてくれるだけでいいんだ。
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9.帰り道の冒険
その後、ご主人様と並んで家へ帰った。
雨は小降りになり、街の灯りがにじんで見える。
ぼくはぴったり横を歩き、絶対に離れないと心に誓った。
「それにしても、ポチが外に出てきてくれるとはな」
ご主人様が笑う。
「きっと家で泣いてるだろうって思ったのに。まさか探しに来るなんて」
ぼくは胸を張って「ワン!」と答えた。
世界のどこにだって、ご主人様を探しに行くさ。
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10.家に帰って
家に着くと、玄関は暗いままだった。
でもご主人様がドアを開け、灯りをつけると、たちまち安心できるにおいと温もりで満ちた。
「ただいま、ポチ」
その声を聞いただけで、ぼくは涙が出そうになった。
待ち続けた言葉が、ようやく帰ってきた。
タオルでぼくの体を拭いてくれ、ご主人様も着替える。
温かい空気の中で、ぼくはようやく安心して丸くなった。
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11.小さな約束
ご主人様はソファに腰を下ろし、ぼくの頭を撫でながら言った。
「今日は本当にごめんな。もう二度と、心配させたくないな」
「ワン!」
ぼくはしっぽを振る。
たとえ何があっても、ご主人様は帰ってきてくれる。
そのことを、今日の冒険で学んだ。
でも同時に思った。
もしまたご主人様が遅れるときは、ぼくが迎えに行こう、と。
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12.そして、眠りへ
夜は静かに更けていった。
ご主人様の隣で眠る心地よさ。雨音ももう怖くない。
瞼が落ちる直前、ぼくは心の中でつぶやいた。
――ご主人様、今日は本当におかえりなさい。
――そして、明日もまた一緒に歩こうね。
しあわせな夢に包まれながら、ぼくは眠りについた。
【おわり】
ぼくのご主人様がいなくなった日 @Shibaraku_shiba
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