【街】 4-① 隣にある異界

 「なぜ……ご一緒に………?」


**********


 連絡をしても繋がらない、部屋まで行っても返事がない。そう、それはもちろん心配する。今は怪異事件の真っ最中なのだ。

 だからマカリが慌ててマスターキーを使って部屋に入って来て次期社長を探し回り、寝室までやって来たことは責められることではない。

 だが久しぶりにふかふかのベッドで眠った定住先のない獣1匹と人間1人、ここ一ヶ月ほどほぼ眠れない夜を過ごして久々に安眠出来た人間1人、多少寝過ごしてしまっても仕方がない。

 ただいくらベッドが広大とはいえ、並んで寝ていたのはまずかったのだろうなとノニはセジュラの絡まった毛をブラッシングしながら、凹み切ってソファに座って頭を抱えているマカリを見て思った。

「僕が情けないことに倒れてしまっただけだから、マカリが心配するようなことは何もなかったぞ。」

 シャワーを浴びてマカリが持って来たYシャツに着替えたイリセが、少し湿気った髪のままテーブルで朝食を食べながらそう言うと、マカリは「はい……」と沈んだ声で返事をする。要は昨夜イリセが言っていた体裁や体面の話なのだろう。

 マカリが手配してくれた朝食は、マフィンにハムと丸い半茹での卵が乗って黄色いソースのかかった洋食で、エッグベネディクトとかいうらしい。先ほど品の良い制服を着た人間がワゴンに載せて届けてくれたので、恐らく系列ホテルのレストランのものだろう。ノニは食べたことがない。

 セジュラの抜けた毛をトランクの中にある袋に入れて、ブラシもそこに放り込み、ノニは立ち上がった。

「……ああノニ様、ごみなら捨てておきますが。」

 思い悩んでいる様子にも関わらず気付いて声をかけて来たマカリに、本当に気が付く優秀な秘書だなと思いながら、ノニはテーブルにつく前に「いえ」と返事をする。

「これの毛で作れるものはたくさんありまして。まあ私では活用出来ないので、技術を持つ人間に送ります。」

 ノニの兄は業界でもかなり有名な退魔道具を作る技術者だ。セジュラの毛のような材料は本来なら非常に手に入りにくいらしく、兄の名声獲得に一役買っている面もある。ノニにしてみればただの毛の塊でごみなのだが、捨てたり、別の業者に路銀のために売ると酷く怒られるのだ。

 食べ慣れている様子のイリセの皿や手つきを眺めて、ノニが見様見真似でナイフとフォークを掴んで朝食に手をつけると、マカリが遠慮がちに口を開いた。

「あの、ノニ様。……何もなかったのですよね?」

 ナイフを刺した卵から真っ黄色な黄身が溢れてソースと混ざり、ハムとパンにとろりとかかるのを眺めながら、ノニは「ありましたよ」と返事をする。

 ひゅっとマカリの息を呑む音と、イリセが凄まじい勢いで顔を上げるばっという音を聞きながら、ノニは卵からパンまでナイフを動かしながら一口サイズに切り分けた。

「例のひたひた鳴る音の正体はまだですが、黒い塊と子どもの声の正体は分かりました。あとはイリセさんの目の方ですが、それも何となくは。」

 言い終わってノニがエッグベネディクトを口に入れて顔を上げると、イリセは目を閉じてほっとしたようなため息を吐き、後方のソファのマカリはまた頭を抱えた。

 口に入れたものを飲み込んでノニはイリセに視線を向け、ナイフとフォークを皿の上に置いた。

「イリセさん………ええと、」

 昨夜の座敷童の仕草を思い出しながらノニは両手で輪を作って目元にやり、その輪からイリセの顔を見る。

「……こういうものに心当たりはありませんか?」

「………水中ゴーグル?」

 なぞなぞに答えるように返事をしたイリセに、ノニは「ううん」と眉を寄せた。

「何でしょう、わたしにも分からないんです。こういう形状のものとしか……」

 イリセは真剣にノニの顔を見て、自分もナイフとフォークを皿の上に置いてから両手で輪を作って覗き込み、何度か瞬きをする。

「建築の視察なんかの時は、現場で双眼鏡や望遠鏡を使うこともあるけど……」

「いえ、ええと……」

 ノニは輪を作っていた両手を少し動かして「こうで、」と言ってから、その輪を崩して両手で目元を覆い「こういうものです」と解説した。

「……覗いて……目を塞ぐのかい? ………ううん……?」

 イリセは首を傾げて自分の手を見てから、眉を寄せたまま目を閉じて考え込む。

「アイマスクでは?」

 不意にマカリが会話に入って来て、ノニは目を見開いてマカリの方を見た。イリセも目を開けて肩越しにマカリを振り返り、どうにも腑に落ちない顔をして眉を寄せたまま「んん」と声を出す。

「僕の愛用のあれかい? でもあれは1年以上使っているし、別に今回のことには関係ないと思うけど……」

 ノニはイリセの方へ視線を移し、ふと昨夜のイリセの目元を触る仕草と意識を落とす直前に言っていた言葉を思い出した。

「ひょっとして、『ないとちゃんと眠れない』というのはそれですか? 起きた時に目元を触ったのも?」

 真剣な声音に驚いたのか、イリセはノニに視線を戻して困惑したような顔で「う、うん」と小さな声で返事をする。ノニは片手で目元を覆ってテーブルに肘をつき、はーと長いため息を吐いた。

「クッ、ククッ、ずいぶんイヤな方法を使う術者だなァ。そりゃ呪詛の臭いがしねえはずだ。」

 リビングに転がって後ろ足で顎の下を掻きながら言うセジュラの言葉に眉を寄せ、ノニは目を覆った片手でそのまま前髪を掻き上げて苦い顔をしたままテーブルの皿を見つめる。そして言葉を選んで絞り出した。

「いえ……見てみないと分かりません。ともかくそれを……どこにありますか?」

「僕の部屋だ。」

 ノニは顔を上げてイリセに向かって頷くと、ナイフとフォークを手に取る。

「急いでも仕方ないので……朝食が終わってから確認しましょう。準備をしますから持って来て下さい。」

 皿の上のエッグベネディクトを切り分けて口に入れながら、ノニは今回の事件の複雑さに追加料金を貰うべきか迷った。初日の依頼時の前金だけでも十分な額は貰っているものの、どちらにしろ誰か知り合いを紹介しなくてはならないし、紹介料名目で多少追加しても良いかもしれないと思い始める。

 ノニがそんなことを思いながら朝食をほとんど食べ終わったところで、不意にセジュラが立ち上がって部屋を一周し、爪の音を鳴らしながらこちらへやって来た。口に咥えた蓋が紺色の紙製の箱をテーブルの上に置き、鼻先でノニの方へ押し出す。

「ほれ、ゴウジュラが来たぞ。」

 箱を開けると白銀色の長くて細いスネークチェーンが一本、留め具付きで入っている。それを見てからノニはイリセを一瞬見て、セジュラの耳に顔を寄せて小さな声で喋る。

「………セジュラ、この人がどういう人か説明したか? 性別とか、年齢とか、肩書きとか。」

「おお。『二十代半ばで専務って、それだいぶ危ない会社じゃないか?』とか言ってたな。」

 山間の静かな村に近い町で、この街に来たことがないどころかあまり家の敷地の表にすら出ない兄の知識は、膨大な書籍と限られた映像放送によるものだけだ。

 自分で何を作って貰うか指定すれば良かったなと思いながら、ノニは開けた箱の蓋を下に重ねてイリセに差し出した。

「それほど強くはありませんが、お守りを用意しましたので使って下さい。まあ、ええ、ネックレスが一番簡単ですが、腕に巻いたりとか出来ます。」

 歯切れ悪くノニが言うと、イリセは小さく首を傾げた。

「これは、あの棒と同じようなもの?」

 キッチンの一輪挿しに挿した白銀色の棒を指差してイリセは尋ねる。

「わたしは技術者ではないのできちんと説明は出来ないのですが、効果は同じようなものです。イリセさんの守りとして作って貰いましたので、生き霊避けと、あと術式のない簡単な呪詛………まあ、いわゆる恨みや嫉妬の害意を避けてくれるはずです。」

 イリセは箱からチェーンを手に取って留め具を外し、首に巻いて長さを確認する。

「メンテナンスは必要ないのかい?」

「いつでも綺麗にしておけば大丈夫です。いわゆる『お守り』なので効果は1年。まあ年を越す時に取り替えるか、不要と感じれば返して頂ければと。」

 チェーンを片手で首の後ろで持ちながらイリセはYシャツの襟を整えて、ボタンを閉じればチェーンが隠れることを確認して頷いた。

「今回は急ぎだったのでそれですが、料金を払えば好きなものに出来ます。」

 マカリが少し不審そうな顔をしたことに苦笑して、ノニは首を傾げた。こういう話は大抵不審がられるのを理解はしている。追加料金はともかく、営業活動くらいはさせて貰って問題ないだろう。

「ビジネスマンに人気があるのは腕時計とかで、これは高いです。高校生に人気なのはキーホルダーとかですね。」

「色々あるんだ。」

「質は良いですが『お守り』なので、素材が高級品でなければそれほど高額ではありません。なるべく身につけておけるものが良いですが。」

 ノニの説明を聞きながらチェーンをネックレスとして身につけ、イリセはYシャツのボタンを留めてそれを見えないようにする。

「うん、ありがとう。………じゃあ時間もあまりないし、取って来るよ。」

 勇気づけられたのだろうか。少しだけ嬉しそうな、安心したような表情を浮かべて口角を上げイリセはテーブルから立ち上がり、玄関から部屋を出て行った。ノニも立ち上がって食器を片付けよう手をかけたところでマカリの制止が入る。レストラン側がすぐ引き取りに来るとのことだ。

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