【街】 4-②
間もなく食器の引き取りが来てテーブルが片付いたところで、ノニはトランクから取り出した大きめの白い布をテーブルに広げて、キッチンの一輪挿しから白銀色の棒を3本とも取り出して、さらさらと布の上をなぞった。
棒を一輪挿しに戻すとセジュラが顔を出してテーブルの上を確認するように覗き込み、ひょいと床に降りる。
そうしている内にイリセが戻って来たことをリモコンAIの音声が知らせて来て、マカリがそれを迎えるために玄関へ向かい、イリセと共に戻って来た。
イリセに渡されたアイマスクは重く、セジュラが低く唸る時のように鼻先をしかめて「うぇ」と呟く。
見た目はごく普通の布製もので色は黒っぽく、座敷童の伝えて来た通りに目元を大きく覆って耳に布を巻いたゴムでひっかけるようになっている。今時は安眠を促すためのヘッドギアもいくつもあるのに、ずいぶんレトロな品物だった。そう、この布製の本来なら軽量の物品が、妙に重いのだ。
「……ダメにしてしまってもよろしいですか?」
テーブルの上に広げた白い布の上にアイマスクをかざすように手に持ったまま、ノニはイリセに尋ねる。
イリセは少し迷った風な仕草を見せたものの、1秒もせずに「うん」と頷いた。ずいぶんとノニのことを信用してくれているらしい。
裁ち鋏でアイマスクの上辺を細く切り落とし、ノニは中を開ける。
うっすら紫紺を帯びた鉄粉のようなものが中に入っていて、ノニは眉をしかめてそれを白い布の上に出した。そして裁ち鋏で続けてアイマスクの左右の辺を切り取り、アイマスクを完全に開いて目の方へ当たる布の方に入っていた綿を抜き取った。テーブルに広げた白い布に大きな円を描くようにふっと青白い文字が浮かび、同時にアイマスクの内側の布に真っ黒な墨文字が浮かぶ。
セジュラがふんふんと鼻を動かして、ふすっと息を吐いた。
「………外に影響が出るものじゃない。ちょっと洗って捨てろ。」
低い声で言ったセジュラにノニは頷いてアイマスクを白い布の上に置くと、青白い文字も墨文字も霧散するように消え去った。
「結論から言えば、イリセさんには治療が必要です。」
ノニが顔を上げてそう言うと、テーブルから少し離れて見ていたイリセが目を開いて眉を上げ、何度か瞬きをした。
「今ので、その……終わったのでは?」
マカリの言葉に首を振って、ノニは顔をしかめた。
「呪詛自体は『これを身につけないと眠れなくなる』というような弱いものです。昨夜ここの結界に入ったこともそうですが、恐らくセジュラがいたのでこれが引き剥がされてイリセさんは安眠出来たのだと思います。」
そこでノニはちらりと紫紺の鉄粉のようなものに目をやって、ため息を吐いた。視線を戻してイリセの戸惑いを浮かべる瞳を見る。
「問題はこちらの粉です。………これは毒です。かなり遅効性ではありますが、イリセさんの目の状態を考えると効果が出始めたのでしょう。」
「毒……?」
「正確には『神へ拝する粉』と呼ばれています。大昔にある怪異を崇める人間が作ったもので、実体のある特定の怪異を材料にして体内に入れることで神への拝謁が可能になると言われています。」
イリセは青い顔をして眉をしかめた。
「そ、それは………いやでも、僕は体内に入れてはいない、けど……」
「体内に入れると死にます。」
「えっ」
意味が分からないという困惑した顔で、イリセはノニを見つめる。マカリは眉を寄せてテーブルの上のそれを見つめていた。
「使い方はそうなのですが……本来、実体のある怪異と長い時間を過ごすと、お互いに影響し合ってお互いの世界に干渉します。人間であれば『奥の五感』が開く。怪異はヒトの目につきやすくなる。あなた方にもこのセジュラが常に見えていて、これが妙に人懐こいのはわたしが長い間一緒にいるからです。」
何故かセジュラが得意そうに鼻を鳴らした。はあ、とノニはため息を吐いて言葉を一旦切り、また視線を紫紺の粉へ向ける。
「これを薬として飲み込めば死にます。要は怪異と同じ世界に行くということです。この粉はいわば死して形を失わない怪異の死体で……なので、これを長い間身につけていれば、『奥の五感』は否応なく開くんです。」
これの恐ろしいところは、単に起こる出来事だけではない。少なくともこの方法は1年、あるいはそれ以上の時間をかけて標的に毒を染みこませ、「見える」ようにしてから何らかの怪異をけしかけている。セジュラが「イヤな方法を使う術者」だと言ったのは、これだけの時間をかける執着を持ってこの年若いイリセに何らかの恨みつらみをぶつけようとしているという部分だ。
「知り合いの医者を紹介しますから、まずは毒を抜きましょう。それで完全に見えなくなるかは分かりませんがまだ間に合うはずです。」
イリセはぎゅうっと苦い顔をしてから、ノニから視線を逸らすように伏せた。マカリが少し困ったような顔をしてノニへ尋ねて来る。
「その医者というのは、いわゆる……呪術師のようなものですか?」
ノニはマカリの表情が不信感を体現したものであることに気付き、「ううん」と小さく唸る。勝手に言って怒られないだろうかと思いながら、ノニはしばらく悩み、仕方ないかと考えてマカリの目を見つめた。
「口外はしないで欲しいのですが、そこのアクタクリニックなので保険証治療で出来ます。あ、薬代は少し高いとは思いますが。」
マカリは一瞬呆けたような顔をして、「そう、ですか」と曖昧な返事をした。
無理もないとノニは思う。怪異事件はそもそも遭っている当人にしか分からないことも多く、これだけ次々と怪しい道具や人物が登場すれば周囲の人間に不審に思われても仕方がない。こうしたことで次々と高額な請求をする者も業界では多く、一般的には詐欺商売として認知されているのだ。
「僕も、その行きたいが……スケジュールがある。明日、いや………明後日じゃダメかな?」
イリセが焦ったようにノニの顔を見てそう言い、ノニが首を傾げて確認するようにセジュラを見ると、セジュラは首を振った。
「構いませんが、わたしは明日にはここから出なければいけません。治療初日は結界があった方がいいのですが、無理なら少し我慢が必要ですね。」
「我慢……?」
ノニはなるべく柔らかい表現で言ったつもりではあったのだが、イリセの顔色が悪くなっていくのを見て、詳しく説明した方がいいかなと首を捻って的確な表現を頭の中から探し出す。
「これから抜く怪異の死体の毒気……端的に言えば臭いのようなものですが、他の怪異を呼び寄せますからね。あれらにも弱肉強食がありますから。悪さはしないでしょうが、ちょっと怖いかもしれません。」
イリセがびくりと小さく肩を震わせると、セジュラがククッと笑った。
「まあこのおばけビルだ、ちょっとじゃ済まないかもしれねえけどな。」
「よせセジュラ。まあ、嘴のあるものが来ると怖い度が上がるかもしれませんね。基本的にはあなたの目に群がると思いますので、ちょっとつつかれる感じになって……ああ、痛くはありませんから大丈夫です。」
「大丈夫じゃない……」
消え入りそうな声でイリセはそう呟いたが、しかし小さく首を振って息を吐いた。
「それでも仕事に穴を開けるわけにはいかないんだ。昨夜も話した通り今の僕の立場は危うい。仕事だけは出来ることを見せなきゃいけない。」
イリセの言葉にマカリが今朝の中で一番の苦渋の表情を浮かべたのを見て、ノニは何度か瞬き「本当に?」とマカリに向かって呟いた。視線を上げてノニを見たマカリの目は怯えの色を含んでいる。
「……どういう意味」
「申し訳ありません。」
顔に疑問符を浮かべて尋ねたイリセの言葉を半ばで遮って、マカリはイリセに向かって頭を下げた。
「……社長から、あなたをしばらくここから出すなと言われております。」
イリセはマカリの下がった頭の後頭部を見つめ、言われた言葉を理解出来ないようにしばらく動かずに瞬きをする。そして数秒経ってからきゅうっと碧の瞳が小さくなったように目を大きく見開いてから眉を下げ、顔を覆うように両手で押さえて前髪を掻き上げながら、頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。ノニはそれを横目で見ながらクローゼットまで行き、ライダースジャケットを取り出す。
「ではアクタさんのところの予約を取るついでに買い物をして来ます。イリセさん、髪の色はブラウンでいいですか? 服は簡単なTシャツとジーンズ買って来ますから、あとで好きなのを一緒に買いに行きましょうね。」
てきぱきと言ってノニはセジュラの頭をポンポンと叩いてから玄関へ向かう。
イリセが顔を上げてノニを見つめて来るのに対し、ノニは微笑んで歯を見せた。マカリが焦ったように頭を上げてノニの方へ向き直る。
「今の話を聞いていましたか? 専務はここからは……」
「聞いていたからあなたにお願いせず、わたしがわざわざ変装道具を買いに行くんですが。………マカリさんも縛った方がいいですか? それとも聞かなかったフリをしてこの部屋から出ますか?」
ノニが口元に笑みを浮かべながら尋ねると、マカリは喉の奥の方で「う……」と微かな声を出した。
「スケジュールが空いたのであれば、わたしはイリセさんの治療を優先します。彼の精神が参ってしまったように思っているようですが、毒を盛られた人間を治療もせず座敷牢に閉じ込める方が狂気でしょう。わたしは、あなたはまともな人間であると信じていますが、いかがですか。」
マカリは答えない。代わりにイリセが後ろからノニを見て首を振った。
「いや………ID制御をされていたら僕はエントランスから出られないよ。」
「それはないでしょう。あなたが言ったんですよ『体裁』だと。見た目が変わって『専務だと分からなければ良い』んです。」
ノニがマカリを振り返ると、彼は眉を下げて視線を逸らした。
「この部屋の手配でさえ確認と決裁が必要で一存では不可能。これだけ巨大になれば社長命令で専務のID制御なんて、一方的なトップダウンで現場の人間に言えるような黒い企業ではないでしょう。」
そもそも、この素直そのもののお坊ちゃんを閉じ込めるのにそこまでする必要はない。言われれば従うだろうと高を括っているはずだ。
マカリは視線を戻してノニを見てからイリセを振り返り、またノニを見て何か言いたげに口を開いたが、ぐっと眉を寄せてノニに頭を下げた。
「……専務を、よろしくお願いいたします………。」
板挟みなのだと思う。彼の立場は専務の秘書ではあるものの、それ以上に社長の指示に従う上の秘書の部下なのだろう。ただ世話役としてイリセの面倒を見て来たとなれば、この年齢差を考えればそれなりに情も湧くはずだ。マカリは頭を上げて振り返り、イリセに向かって深々と頭を下げた。そしてきびすを返して、ノニを通り過ぎて玄関へ向かう。
ノニはそれを視線で見送ってから、イリセに視線を戻した。
「ちょっとした休暇だと思って下さい。少しの間セジュラとお留守番をよろしくお願いします。」
呆けたような顔でノニを見つめるイリセにそう言うと、ノニも玄関へ向かった。ドアの前で律儀に待っているマカリを見て可笑しくなって笑いそうになったが、リビングから足音が追いかけて来て、ノニは振り返った。
「髪は、黒がいい。あと、色つきの眼鏡………僕、目の色が目立つから。」
寄せた眉を下げた未だに気の晴れない表情ではあったものの、イリセはそう言ってノニを見送る。そしてマカリの方を見てからぎこちなく微笑んで「大丈夫」としっかりとした口調で言い、後ろからついて来たセジュラを撫でた。
ノニは「はぁい」と軽い返事をしてマカリと共に玄関のドアから出て閉めてから、ふと息を吐いてマカリを見て、エレベーターホールへと促す。
「社長というのは、イリセさんのお父様ですか?」
並んで歩きながら質問すると、マカリは「はい」と答えて少し思い悩むような顔をした。ノニはその表情を見て首を傾げる。
「では『出すな』というのは、別に息子さんを狂人扱いしたわけではないですよね。だってその方はたぶん奥の五感が開いていますから。」
小さくマカリの喉が鳴る。
「ここにはずーっと長く住んでるものがいますし、一族の中にそれを祀る方が絶対にいるはずなので。あなたもやはり血筋から雇われたのではないかなとは思っています。『見える』のと『力がある』のは別のお話ですから。」
エレベーターホールに到着して階下へのボタンを押すと、しばらく箱はやって来ないらしい。やはり以前にすぐやって来たのはタイミングだったようだ。
「魔狩り関係者がいながらそちら方面への依頼をしないことは不思議だったのですが、まあ……『狩って』しまってはいけないものがいたということで納得はしました。トップシークレットということは理解しています。社長のイリセさんには、あれのことを息子さんに黙っておいた方が良いか確認しておいて下さい。」
エレベーターが到着するとマカリは乗り込まずにノニを促してから、自身はその場に留まって「分かりました」と返事をし、ノニを見送った。
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