【街】 3-③
薄暗がりの中、イリセがふと目を開けた。
横向きに体を縮こませて眠っていたので頭を撫でていたのだが、ぼんやりした瞳がゆらゆらと動き、ぱちんと一つ瞬きをすると目を大きく見開いてノニを見た。
「起きましたか?」
静かにノニが尋ねると、イリセは言葉が出て来ないのか、眉を寄せたり上げたり目を何度も瞬いて、それからノニが手の平で触れていた耳元がじわっと熱くなった。
そのままノニの手から逃れるようにイリセの頭が少し後ろに下がると、ぽふ、と毛皮に埋まる。その感触に驚いたのかまた目をぱちぱちと瞬いて、それからイリセは「あ」と小さく声を上げた。
「………セジュラとの添い寝は了承したが、きみとの添い寝は了承していない………」
眉を寄せて絞り出すような声で呟いたイリセに、ノニは寝転んだままイリセの顔を見つめて伸ばしていた腕を引っ込め、少し頭を動かした。
「わたしは寝ていないので、別に添い寝ではありません。」
セジュラのスピーという鼻息が聞こえる。この一般的な家庭には絶対に収まらない広大なベッドの半分を占拠する大きさの獣の姿で、セジュラはひっくり返って腹を出して眠っていた。
イリセはハアとため息を吐いて、そしてふと自分の目元に手をやる。その行動の意味を図りかねてノニは眉を上げるが追求はせず、どうも納得していない様子のイリセに小さく笑って目を細めた。
「『眠れていない』ということは、あなたが眠れば何かあるかなと思って様子を見ることにしたんです。」
ノニの言葉にイリセは目を伏せてそのまま目を閉じた。
「眠れないのは………確かに怖いのもあるけど。それ以上に……」
そこで言葉を止めて、イリセは口を噤んだ。ノニは言葉を促すこともせず、ただ横になったままイリセを見つめる。迷った末に瞳を開けたという様子でイリセの視線がノニの目と合い、彼は目を細めて自嘲するような情けない顔で微笑んだ。
「僕は、次期社長として出来損ないになってしまった。」
ゆっくりと瞬きをして見つめるノニに、イリセは眉を寄せて目を伏せて首を振った。
マカリも「治るのか?」と聞いたのだ。特に気にしているわけではなかったが、ノニ自身、「ただ見えてしまう」ことに対しての不都合はあまり感じたことがなく、彼の気持ちを理解出来ない。確かに「人より見えること」によって、あちら側から目をつけられることはままあるが、それでも「全く感じない」人間の方が珍しいくらいなのだ。
ふとしたことで、怪異はヒトの五感に触れる。
奇妙な音は聞こえるし、おかしな臭いはするし、変なモノが見えるし、ありもしないものの感触はあり、万人がゲテモノと称するものをあり得ないほど美味に感じたりする。
何故なら、それらは常に傍にいるのだから。
「………その、どう言えばいいのか分かりませんが、生きる上でそれほど大きな不都合はありませんよ。対策をすれば。出来損ないというほどでは……」
「……『見える』ようになったことじゃないんだ。ごめん、言い方が悪かった。きみは気を悪くしただろうね。」
視線を上げてノニを見て、イリセは眉を下げる。
「僕は、見えるようになったことを周りに言ってしまった。知られてしまった。『優秀な跡継ぎの専務』が一気に『狂った次期社長』になってしまったんだ。」
顔を片手で覆うようにして体を更に縮め、イリセは「ああ……」と微かな声で、ため息とも嗚咽ともとれないものを吐く。
「僕の実体や本音はどうでもいいんだ。次期社長としての体裁……外見が取り繕えていれば良かった。なのに、僕は………」
これだけ大きな企業の派閥争いなど、本当に血で血を洗うような壮絶さがあるのかもしれない、とノニはイリセを見つめて思った。
「………吐き出しますか?」
ぽつりとノニが尋ねた言葉に、イリセは「え…」と微かな疑問符を喉の奥から響かせる。
「仕事としてはたまにありますよ。あなたがどう考えようとも、ヒトの中に溜め込むマイナスのものは何らかの呪詛になり得ます。いずれ何かを蝕む。その前の無害な状態で出させるんです。」
ちらりと片手をずらして不審そうな目でノニを見るイリセに、ノニはベッドの上に肘を立て、体勢を変えて手の平を頬に当て頭を支えた。
「怪しいでしょうが、懺悔室とか、穴を掘って誰にも言えない事を叫んでいた話とかは、そういう側面もありますから。これだけなら料金を頂きますが、まあ、初回無料サービスにしておきます。」
何とも言えない顔でイリセも姿勢を変え、天井を向いて仰向けになって息を吐く。そしてちらりと横目でノニを見て視線を天井に戻し、またため息を吐いた。
「確認をしたい。」
イリセの言葉に「ええ」と返事をして、ノニは言葉を待った。
「…………きみ、の……………きみ、その………………性別が分からないんだが。」
ノニは何度か瞬きして、これだけ真っ向から質問されたのは初めてだなという感想を抱いた。普通の人間は尋ねて来ない。
「僕は、その、女性が苦手なんだ。生き霊という話だったが……学生の時から、怪異以上に怖い出来事も……あって。だから」
「どちらに見えます?」
イリセの言葉を遮ってノニが尋ねると、彼は首を少し回してノニを真っ直ぐに見た。寝室のガラス張りの壁面から入る月明かりで、グリーンの瞳がちらちらと光る。
「どちらにも見えるし、どちらでもないようにも見える。」
その酷く素直な答えに、ノニは思わず吹き出した。体勢を崩してうつ伏せになり、腕で顔を隠すように枕に埋めてくつくつと笑う。
腕から顔を目の部分だけ上げると、イリセは驚いたのか目を見開いてノニを見つめていた。
「きみ、そんな風に笑えるのか。」
「ふっ、あはは、笑いますよそりゃ、人間なんですから。」
目を細めた笑い顔のまま、ノニはイリセを見つめて眉を下げた。だから「ノニくん」なのかと、ふと思う。自分の内にある女性像から遠いのか、はたまた違う存在であって欲しいのだろう。
「ひみつです。」
そう囁いて、ノニはまたくすくすと喉の奥で笑いを漏らした。イリセは眉を寄せて少し困惑したような顔をする。
「意地悪で言っているわけではないですよ? 事情があります。まあ、あなたが不快にならないように都合良く考えて頂ければ良いですから。」
ノニの言葉にイリセは眉を寄せたまま不服そうな顔になった。今日会ったばかりだというのに、こんなに怪しい便利屋にここまで心を預けてしまってどうするのかと、ノニは少し心配になる。兄に頼んだ守りが早めに届けばいいなと考えながら、また体勢を変えようと少し体を起こした時だった。
ひたっ。
水音のような静かな音が耳に響き、ノニは完全に体を起こした。そして寝室のガラス窓へ目をやり、何もいないことを確認する。ノニが視線を戻すとイリセにもしっかりと聞こえたらしく、顔を強張らせて両手を握り締めていた。
「イリセさん、結界とセジュラであなたは見えなくなっていますから、ここでその毛むくじゃらにくっついてじっとしていて下さい。」
指示をするとこくっとしっかりと頷いたので、ノニは少し安心した。イリセはやりとりをしていると幼い少年のような印象を受けるのだが、生まれてすぐから大きな肩書きを背負って育って来たせいだろうか、自分の心や感情はしっかりと制御出来るようだ。
「………ノニくんは?」
「わたしは廊下の様子を見て来ます。」
ノニがイリセの質問に答えてベッドから降りると、彼は小さく首を振った。ノニは「大丈夫です」と言いながら移動して、ベッドの足下に置いてあったブランケットをふわりと広げてイリセを隠すように上にかける。
「絶対に、このベッドの上から降りないで。」
そう言い残して、ノニは寝室から出た。
イリセの様子を見るために寝室に入る前、脱いでソファに適当に置いたパーカーをTシャツの上から羽織ってから、ノニは少し迷った後に広げたトランクの中から50センチ程度の複雑な形状の棒を取り出した。朱色に塗られたそれの真ん中のグリップ部分を握り、ノニはゆるりと玄関へ向かう。
ひた、ひた、と遠ざかることなくぐるぐると回っているように時折音がすることを考えると、イリセの位置は見えていないし入っては来られないものの、この中にいることは分かっているのだろう。
相手が呪詛なら実体がないので攻撃出来ないが、正体を確かめないと対策も立てられない。
意を決して、ノニは玄関のドアから廊下に出た。
右の廊下の奥を見て、左のエレベーターホールを見て、もう一度右の廊下の奥を見ると、ノニの視界に何かが映った。
真っ黒い、バレーボールくらいの大きさの何かが廊下の真ん中に落ちている。
(あれか)
ノニが躊躇いもなく早足で近付くと、それはきゅっと黄色い目を見せた。
拾おうと手を伸ばすと、それが驚いたように体を竦ませてぴょんっと飛び跳ねて逃げようとするので、ノニはだんっと一歩踏み込んで捕まえる。
ふわふわとした手触りは、あまり質の良くない古いぬいぐるみの感触だ。ぶるぶると震えるように振動するそれを、持っていた棒を小脇に挟んで両手でころころと転がすように観察し、ノニは首を傾げた。
「蛙のぬいぐるみ………?」
確かに動いてはいるのだが黄色い目はレジン製の無機質なもので、元々は白目の部分だったものが経年で色が黄色くなったようだ。手足も本物の蛙ほどの能力があるようでもなかった。
それを両手で掴んで蛙の腹を親指で弄りながら、ノニは「子ども」を探して部屋の前の廊下を振り返る。頭の中にビルの見取り図を思い描き、執務室の前がこのフロアのどこにあたるのかを考えて、ノニはエレベーターホールと反対側に歩き出した。廊下の突き当たりの部屋の前で立ち止まり、また自分の部屋の前を振り返る。
ひたひたと鳴る音が遠ざかったのを確認し、視線を前に戻してから、もう一度ばっと振り返る。
目が、合う。
橙の着物姿の黒髪黒目の幼い子どもが慌てたようにぱたぱたと逃げ去ろうとするものの、一度目が合って見つかってしまえば、その人間が目を逸らすまでは姿を隠せない。
「こら、待ちなさい。友達を置いて行く気か。」
ぴたりと動きを止めて振り返った子どもは、寄せた眉を下げてノニを肩越しに振り返る。そして悲しそうな顔で片手で雑に掴んだ蛙を見て、体ごと振り返った。
「返してあげるからこっちに来て。きみ、ここの子だろう?」
顔を上げておずおずとしながらこちらにやって来た子どもに、ノニはしゃがみ込んで蛙を差し出す。
どれだけ大きくなろうとも止まることのない成長。国をも動かす大企業。会社としてはエントランスの龍が本命だろうが、イリセという名だけで……いわば一族経営でここまでの規模までになった理由が、その子どもを見てノニは腑に落ちた。
これは座敷童だ。
しかもずいぶんと長い間ここに住んでいる。イリセの執務室の前の上下どこかのフロアに、この座敷童を祀る部屋があるはずだ。ちょっとしたいたずらはするだろうが、悪さをするものではない。
動く蛙のぬいぐるみを渡すと、座敷童はきょとんとした顔でノニを見上げる。
「大事な友達だろう。」
頷いて黒い蛙のぬいぐるみを安堵した顔で見て、すぐ消えるかと思ったが座敷童はノニの方へ視線を上げた。そして振り返ってノニの部屋のドアを指差す。
ドアを指差したままノニを肩越しに振り返った座敷童の顔を見て、その動きの意図を数秒考えてから、ノニは「ああ」と声を出した。
「ここの息子が心配?」
ぱあっと顔を明るくして頷いた座敷童に、ノニは意思の疎通がとれることに密かに驚く。
「あの人とも友達?」
座敷童は首を振って、大きな目をぱちぱちと瞬いた。そして何やら唇をゆっくりとノニに見せるように動かして4文字の単語を伝えて来る。
そして蛙のぬいぐるみを頭に乗せて両手で丸い囲いのようなものを作り、そこから双眼鏡を覗くような格好でノニを見た。そしてその手を外して、人差し指で自分の両目を指すように目元を押さえる。
「……きみ、彼の奥の目が開いた理由を知ってるのか?」
尋ねると、何度も頷いてまた両手で輪を作って双眼鏡を覗くような仕草をし、じっとノニを見つめて来る。
セジュラがいれば完全な意思疎通が出来るのだが、しばらくぶりの広いベッドに大喜びして寝入ったので今起こすのは少し可哀想だと思ってしまう。
ノニが両手で座敷童と同じように両手で輪を作って覗き込むと、座敷童は一度頷いてから今度は両手で目をぺったりと覆った。
何を表しているのかを思案しながら座敷童を見つめ、ノニが小さく息を吐いた時、上からひたりっと音がした。
途端に座敷童の顔が強張るのを視界の端で捉えながら、ノニは天井を見上げる。少なくとも今持っている朱色塗りの武器ははかなり強い魔除けを施してあるので、危害を加えようとする意思があるものは近付くことは出来ないはずだ。
音はその一度きりで、しばらく待っても続きはなかった。ノニが気付いたことに向こうも気付いたといった風だった。ノニが息を吐いて視線を下に戻すと、座敷童もいなくなっている。
小脇に抱えた棒のグリップ部分を握り直して、ノニはそれを一振りする。
少なくともイリセが見たものの中で黒い塊と座敷童には悪意や害意はない。むしろイリセの周囲を這い回る正体不明のものから、どうにか遠ざけようとした可能性の方が高かった。
「本当におばけビルだな……」
舌打ちをしそうになるのを何とか我慢して、ノニは部屋のドアの方へのそのそと歩いて行き、部屋の中へ戻った。
現在は深夜の2時半を過ぎたところだ。結局はマカリに連絡していないので、簡易ベッドはない。
ソファで眠っても良いが、ノニにしてみても久々の広いベッドだ。いつもセジュラと取り合いになってあの大きな図体と競り合いながら眠っているので、出来ればあのふかふかした高級ベッドに戻りたい。
イリセが添い寝の許可をくれるといいなと思いながら、ノニは静かな足取りで寝室へ戻って行った。
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