第19話 夕凪の浜辺と、迷子の心

「カフェ南十字星」の扉を、自分の手で閉めた。カラン、と軽やかなベルの音が鳴る。いつもなら、ユイナの「いってらっしゃい!」という元気な声と一緒に響くはずだった。でも、今の海人の背中には、ただ夕暮れの重たい沈黙だけがのしかかっていた。


一歩、また一歩と、自分の家へと続く小道を、海人はまるで夢の中を歩いているかのように、おぼつかない足取りで進んでいく。いつもは見慣れたガジュマルの木の根も、道端に咲くハイビスカスの赤い花も、今日の彼の目には、どこか遠い、知らない国の景色のように映った。


(俺は、ユイナの本当の世界には、入ることができないんだ……)

その言葉が、まるで壊れた風車のように、彼の頭の中をぐるぐると、何度も何度も回り続ける。

ユイナが当たり前のように聞いている、風の声、 花のささやき、星のまたたき。自分には、そのどれ一つとして聞こえない。今まで、それでよかったはずだった。自分は、この島の海と共に生きる漁師で、ユイナは少しだけ不思議な力を持つ、大切な幼なじみ。それで、完璧な世界だったはずなのに。アラリックという、あの月みたいな男が現れるまでは。


あの男は、俺が決して入ることのできないユイナの世界に、いとも簡単に入り込める人間なんだ。それは、恋の戦いに負けた、というような単純なことではなかった。自分という存在そのものが、ユイナの隣に立つにはふさわしくないのだと、そう突きつけられたような、どうしようもない敗北感だった。


ユイナを守りたかった。ただ、それだけだったのに。その想いさえも、今の自分には、もう資格がないように思えてならなかった。

気がつくと、海人の足は自分の家ではなく、夕暮れの浜辺へと向かっていた。ざあ、ざあ、と寄せては返す波の音が、まるで彼の混乱した心をなじるように聞こえる。彼は浜辺に打ち上げられていた大きな流木に、どさりと腰を下ろした。


諦めちまえば、楽になるんだろうか。ユイナのことも、アラリックのことも、全部忘れて、また元の、ただの漁師の海人に戻ってしまえば。仲間たちと笑い、酒を飲み、海の機嫌だけをうかがう、そんな日々に。


(でも――)

と、彼は思う。あの、星の貝殻が光るカフェで、アラリックを見つめていたユイナの横顔を思い出すと、胸の奥が、まるで万力で締め付けられるように、ぎゅうっと痛んだ。あの瞳は、今まで自分が見たことのないユイナの顔だった。憧れと、ときめきと、そして少しだけ切なさが混じった、恋する少女の顔。


(あんな顔、俺には、一度だって、見せてくれたこと、なかったくせに……)

諦められない。諦められるはずがない。ユイナのことが、どうしようもなく、好きなのだから。


「くそっ……!」

海人は砂浜を、力任せに殴りつけた。でも、柔らかな砂は彼の怒りを優しく受け止めるだけで、何の応えも返してはくれない。


(どうしたらいいんだ。俺は、これから、どうしたら……)

途方に暮れ、水平線に沈んでいく最後の夕日を、ただぼうぜんと眺めていたその時。彼の脳裏に、ふと、一人のしわくちゃの優しい笑顔が思い浮かんだ。

「島のことでわからないことがあったら、あの人に聞け。」

子供の頃、亡くなったじいちゃんが、いつもそう言っていた。島の歴史も、海の機嫌も、人の心の機微さえも、すべてお見通しの島の物知り博士。

(……金城の、おばあ……)

海人は、まるで最後の藁にもすがるような思いで、ゆっくりと立ち上がると、今度こそ迷うことなく、おばあの家へと続く月明かりの道を、歩き始めたのだった。

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