第15話 菫色の瞳の目覚め
月影草の静かで優しい光が「カフェ南十字星」を照らし始めてから、いくつもの夜が過ぎていきました。
ユイナの、長くて、そして懸命な看病の日々が続きます。彼女は、昼間は二人のために滋養のあるスープをコトコトと煮込み、薬草を丁寧に煎じました。夜は、ランプの灯りの下で、汗をかけばタオルで優しく体を拭い、呼吸が乱れれば、その背中をゆっくりとさすってあげました。
客人さんの回復は、目に見えて穏やかでした。月影草の光が、彼の魂の奥深くに絡みついた暗い影を、少しずつ溶かしていくようです。あれほど苦しげだった寝顔は、日を追うごとに安らかになり、まるで、永い冬の眠りについているかのようでした。
一方、海人の回復は、もっと力強いものでした。島の太陽を浴びて育った彼の生命力が、月影草の魂を癒す力と結びつき、日に日にその頬に血の気を取り戻していきます。ユイナが彼のそばにいると、無意識に彼女の名前を呼び、その手を弱々しく探すことも時折ありました。そのたびに、ユイナの胸は、愛おしさと、そして切なさで、きゅっと締め付けられるのでした。
ユイナ自身、疲労はとっくに限界を超えていました。けれど、不思議と心は穏やかでした。二つの灯火(ともしび)を守るこの仕事は、彼女にとって、辛いものではなく、むしろ、自分の存在理由そのものを確かめるような、神聖な時間だったのです。〝果ての島〟で交わした三つの約束が、彼女の心の中で、あたたかいお守りのように輝いていました。
そんなある日の、夜明け前のことです。
連日の看病で、とうとう椅子に座ったまま、こくりこくりと舟を漕いでいたユイナは、ふと、誰かの視線を感じて、はっと目を覚ましました。
そこには、今までずっとソファで眠っていたはずの客人さんが、上半身を起こし、静かにこちらを見ていました。
「……!」
ユイナは、息をのみました。夜の闇を溶かしたような漆黒の髪。彫刻のように整った気品ある顔立ち。そして、なによりも印象的だったのは、その瞳でした。深い哀しみを湛えた、美しい菫色(すみれいろ)の瞳。それは、何百年もの孤独な夜を、たった一人で見つめ続けてきたかのような、あまりにも深く、静かな色をしていました。
彼は、ただ、そこにいるだけで、他の誰とも違う、絶対的な存在感を放っていました。
「……気が、つかれたのですね」
ユイナは、どきどきする心臓を抑えながら、なんとかそれだけを口にしました。
すると、彼は、ゆっくりと、まるで確かめるように一度だけ瞬きをすると、その乾いていた唇を、かすかに動かしました。
ユイナは、彼が何かを尋ねるのだろうかと、ごくりと喉を鳴らして、次の言葉を待ちます。しかし、彼は何も言わず、ただ、その静かな瞳で、ユイナのこと、隣で眠る海人のこと、そして店内を、注意深く観察しているだけでした。その沈黙は、ユイナの心を少しだけ不安にさせました。
「あの、お加減は……」
ユイナがおそるおそる尋ねると、彼は初めて、その視線をユイナへと戻しました。そして、まるで、たくさんの言葉の中から、たった一つだけを選び出すかのように、ゆっくりと、そしてはっきりと、こう告げたのです。
「私の名は、アラリックだ」
それだけでした。自分の名前を名乗ると、彼は再び口を閉ざしてしまいました。自分が何者で、なぜここにいるのか、一切を語ろうとしない、静かで、けれど、決して誰も寄せ付けない、固い拒絶が、その佇まいにはありました。
「アラリック……さん」
ユイナは、その名前を、そっと繰り返しました。その響きは、まるで遠い異国の、古い物語から抜け出してきたかのようでした。
たくさんの疑問が、ユイナの胸の中を渦巻きます。でも、彼のその菫色の瞳に見つめられると、まるで、すべての言葉を吸い取られてしまうようで、ユイナは、それ以上、何も聞くことはできませんでした。
ただ、アラリックという名前の、美しい響きだけが、夜明け前の静かなカフェの中に、いつまでも残っているかのように感じられました。
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