第14話 月影草のあたたかな光

仲間たちが帰り、おばあも「何かあったら、すぐに呼ぶんさね」と言って家に戻ると、カフェには再び静寂が訪れました。ランプの灯りが、壁にかかったタペストリーや、カウンターに並んだハーブの瓶を、柔らかく照らし出しています。その沈黙を、二つの静かな寝息だけが優しく満たしていました。


ユイナは、まず、深呼吸を一つしました。旅の疲れと、感情の昂りで、体は鉛のように重い。それでも、休んでいる暇はありませんでした。彼女は、エプロンの紐を、きゅっと結び直します。それは、気持ちを切り替えるための、大切な儀式でした。


そして、旅の間、肌身離さず大切に守ってきた小さな袋から、約束の薬草〝月影草〟を、そっと取り出します。

それは、とても不思議な薬草でした。月の光をそのまま固めたかのように、青白く、そして、ほのかに内側から光を放っています。その光は、見ているだけで、心がすうっと静かになっていくような、清らかで、神聖な力を持っていました。ユイナは、この小さな植物のために、どれほど長く、困難な旅をしてきたことでしょう。


彼女は、お母さんから受け継いだ石の薬研を取り出し、祈りを込めて、月影草 丁寧にすりつぶしていきます。すると、店内いっぱいに、まるで月夜の森のような、あるいは、夜に咲く花々だけを集めたような、静かで、甘い香りが満ちていきました。その香りを吸い込むだけで、ユイナ自身のささくれ立っていた心も、少しずつ癒されていくようでした。


薬草をすりつぶしながら、ユイナは、〝果ての島〟の主と交わした三つの約束を、心の中でもう一度、ゆっくりと思い返します。

一つ目、自然の声に従うこと。今、この薬草をどう使うべきか、風さんは何か教えてくれるだろうか。二つ目、体を魂の器として大切にすること。今、目の前には、その大切な器が、ひどく傷ついた二人の人がいる。

三つ目、心の一番大切な宝物を、清く守り抜くこと。この、人を助けたいと願う、ひたむきな気持ちもまた、彼女にとっての宝物の一つでした。


この月影草は、ただの薬草ではありません。ユイナが交わした約束の証として、そして、彼女のこれからの「お仕事」の助けとなるように、島の心が託してくれた、希望そのものでした。


ユイナは、まず、客人さんの元へ向かいました。彼こそが、この長い旅の始まりだったのですから。


「お待たせしました。あなたのためのお薬です」

そう言って、すりつぶした月影草を清らかな水で溶いたものを、そっと、彼の乾いた唇に含ませてあげます。


すると、信じられないことが起こりました。

彼の体から、ふわり、と、陽炎のような、黒い靄(もや)が立ち上ったのです。それは、彼がこの島に来てからずっと、ユイナが感じていた、彼の魂を蝕む深い悲しみや、絶望の気配そのものでした。その黒い靄は、ランプの灯りに触れた瞬間に、まるで闇が光に溶けるように、音もなく消え去りました。


そして、何日も、あれほど苦しげに歪んでいた彼の眉間のしわが、すうっと、春の雪解けのように、穏やかに解けていったのです。血の気のなかった頬に、ほんのりと、あたたかな色が戻ってきます。

それは、劇的な回復ではありません。しかし、彼の魂を、内側から縛り付けていた、暗くて重い鎖が、一つ、確かに外れたのだと、ユイナにははっきりとわかりました。


(よかった……)

心の底から、安堵のため息がもれました。私たちの旅は、無駄ではなかった。お父さんとの約束も、島の主との約束も、今、こうして、一つの命を救おうとしている。その事実が、旅で疲弊した彼女の心に、何よりの力を与えてくれました。


ユイナは、次に、眠り続ける海人の傍らに、そっと膝をつきました。彼の顔は、まだ蒼白なままで、その寝顔は、ひどく疲れきっているように見えます。浅く、早い呼吸を繰り返す彼を見ていると、ユイナの胸は、また、きゅっと痛みました。


(海人さん……。ごめんなさい。彼のための薬草は手に入ったけど、あなたのための薬は、私は、何も持って帰ってこれなかった……)

ユイナが、悔しさと申し訳なさで唇を噛みしめた、その時でした。


『ユイナ』 心の中に、あの、爽やかで優しい風さんの声が、はっきりと響きました。

『その月影草はね、魂を癒す薬草だよ。目に見える傷だけでなく、心の奥深くにある、見えない傷を治す力があるんだ』

(魂を……癒す?)

『そうだよ。海人さんの魂もまた、君を想うあまりに、そして、聖なる島の力に触れたことで、深く疲れ、傷ついている。その光は、彼の心にも、きっと届くはずだよ』

ユイナは、はっと顔を上げました。そして、自分の手の中に残っていた、光り輝く月影草を見つめます。


(そうか……そうだったんだ……)

涙が、また、ぽろりと頬を伝いました。しかし、それは、今までのどの涙とも違う、感謝と喜びに満ちた、あたたかい涙でした。島の主は、ユイナだけでなく、彼女の大切な友達のことも、ちゃんと見ていてくれたのです。

「ありがとう、風さん。ありがとう、島の主さま……」

ユイナは、もう一度、薬草を丁寧に水で溶くと、海人の傍らに、そっと身を寄せました。


「海人さん。あなたにも、お薬ですよ」

彼女は、眠る彼の耳元で、囁きかけます。

「たくさん、たくさん、ありがとう。ゆっくり、おやすみなさい」

そして、その薬を彼の唇へ、優しく優しく、運びました。


月影草の淡い光が、海人の体を、そっと包み込んでいきます。客人さんの時とは違い、黒い靄は出ません。ただ、その光は、彼の心の奥底へと、じんわり、じんわりと、染み込んでいくようでした。まるで、乾いた大地に、優しい春の雨が降り注ぐように。疲れきっていた彼の寝顔が、ほんの少しだけ、安らかになったように見えました。


ユイナは、二人の男性の間に、静かに座りました。

右手には、遠い海の向こうから来た、王子様のような客人。左手には、ずっと自分を守ってきてくれた、たった一人の大切な友達。

彼女は、これから、この二人を、同時に看病していくのです。

それは、彼女にとって、これまでで一番大きくて、そして、一番大切な「お仕事」でした。

彼女はもう、ただのカフェの店主ではありません。

約束の重さを知り、その責任を一人で、けれど、たくさんの見えない力に支えられながら、担っていく。


ユイナは、二人の寝顔を、交互に、愛おしそうに見つめました。

夜は、まだ始まったばかり。彼女の長くて、そして、優しい戦いが、静かに幕を開けたのでした。

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