第11話 島の心と、最初の約束

ひとりぼっちで踏み入れた伝説の島は、悲しみに沈むユイナの心をただ静かに、そして優しく包み込んでくれるような場所でした。


空気は、花の蜜と、雨上がりの土の匂いが混じった、甘くて清らかな香り。

深呼吸するだけで、荒れ狂う嵐の中でささくれ立っていた心が、少しずつ鎮まっていくのがわかります。


足元の草は、柔らかな絨毯のように、彼女の小さな一歩をそっと受け止め、その衝撃を和らげてくれました。


見たこともない翅の色をした蝶が、きらきらと光る鱗粉を振りまきながら彼女の周りを舞い、梢の向こうからは、まるで彼女を歓迎するかのように、澄んだ声の鳥たちの歌が、幾重にも重なって聞こえてきました。


あまりの美しさに、ユイナの目からは、また涙がぽろりとこぼれ落ちました。でも、それはさっきまでの、冷たくて悲しい涙ではありません。


あまりに優しすぎるこの島の空気に触れて、心の奥で氷のように固まっていたものが、ほろりと溶け出すような、あたたかくて、どうしようもなく切ない涙でした。


(海人さん……)

この美しい景色を、一番に見せてあげたかったのは、他の誰でもない、彼でした。きっと彼は、目をまん丸くして、「すげえな、ユイナ!」と、子供みたいに笑ったことでしょう。その笑顔を思い浮かべただけで、ユイナの胸は、喜びと悲しみがごちゃ混ぜになった、複雑な思いでいっぱいになりました。彼が無事であることだけを、心の底から祈りました。


ユイナが、光が差し込む開けた場所まで、とぼとぼと歩いていくと、そこに、ひとりの女性が静かに立っていました。 年の頃は、ユイナのお母さんくらいでしょうか。でも、もっとずっと若くも、そして、何百年もこの島を見守ってきたかのように、ずっと年を重ねているようにも見えます。飾り気のない、けれど清らかな白い衣を身にまとい、その佇まいは、まるで一本の、しなやかで、それでいて決して折れることのない、月桃の樹のようでした。


彼女は、ユイナが来るのを、ずっと前から知っていたかのように、穏やかな微笑みをたたえていました。


「ようこそ、ユイナさん」

女性は、ふわりと微笑みました。その声は、春の陽だまりのように、あたたかく、穏やかで、ユイナの心の奥深くに、じんわりと染み渡っていきます。


「私は、この島を訪れる方のお手伝いをする者。『案内人』とでも、お呼びください」

「あの……」

ユイナは、こみ上げてくる悲しみをぐっとこらえながら、震える声で尋ねました。

海人のことが、どうしても心から離れなかったのです。彼が今、どうしているのか。無事なのか。その不安が、彼女の心を支配していました。


「どうして、海人さんは、この島に入れなかったのでしょうか。彼は、乱暴な人なんかじゃありません。誰よりも仲間思いで、責任感が強くて……。私がこの島へ来ると言った時も、最初はあんなに怒っていたのに、最後は、私のために、自分の命を懸けて、あの嵐の中を……」


友達を弁護するその言葉は、だんだんと、このあまりに理不尽な島に対する、小さな、けれど必死の抗議のようになっていきました。


「風さんは、優しい心の持ち主なら、この島に入れるって……。海人さんほど、優しい人はいません! なのに、どうして……!」

案内人は、ユイナの言葉を、ただ黙って、その泉のように深い瞳で受け止めてくれました。その眼差しは、ユイナの悲しみも、怒りも、そして海人への深い友情も、すべてを理解していると語っているかのようでした。


「ええ、存じていますよ」

彼女は、静かに頷きました。その声には、深い慈愛が満ちています。


「海人さんは、とてもお優しい方ですね。そして、あなたのことを、自分の命よりも大切に思っている。その強く、気高いお心も、私たちにはちゃんと伝わっていました。彼が、どれほどの覚悟で、あなたをここまで送り届けようとしてくれたのかも」

その言葉に、ユイナは少しだけ救われた気持ちになりました。島は、海人の心を、決して無下にしたわけではなかったのです。


「でもね」

と、案内人は続けます。その声は、真実を告げる時の、静かな重みを帯びていました。


「この島に入る資格は、ただ優しいだけではないのです。それは、どんな時も――嬉しい時も、悲しい時も、そして、あなたを失うかもしれないという恐怖や、焦りで心が乱れている時でさえも――この島の心と、波長を合わせ続けることができる、ということなのです」


「島の、心……?」

ユイナは、不思議そうに聞き返しました。


「ええ」

案内人は、にっこりと微笑みます。

「あなたは、いつも風さんとお話をしていますね」

「はい。風さんは、私の、一番のお友達ですから」

「ええ。でもね、ユイナさん。実は、あなたに語りかけているのは、風さんだけではありませんのよ」

女性は、空を指さしました。その指先は、白く、細く、まるで光でできているかのようでした。

「お日さまの暖かさも、夜空にまたたくお星さまの光も、そして、ほら、あなたの足元に咲く小さなお花たちも、みんな、あなたにささやいています。嬉しいね、楽しいね、と喜びを分かち合い、時には、そっちじゃないよ、と静かに教えてくれる。それらすべてが、この島の、そしてこの世界の、大きな一つの心、『自然の声』なのです」


ユイナは、はっと息をのみ、目を見開きました。 風さんだけじゃない。この世界のすべてが、私に話しかけてくれていたなんて。

言われてみれば、そうでした。太陽の光を浴びると、心がぽかぽかと温かくなるのは、ただの熱のせいではないような気がしていました。夜空の星を見上げていると、心がすうっと静かになって、悩みがちっぽけに思えてくることもありました。それは、すべて、大きな自然の心がくれる、メッセージだったのです。


「その声は、耳で聞こえるというよりも、心で感じるもの。心に安らぎや、喜び、そして、静かな確信といった感情をもたらしてくれます。逆に、不安や、怒り、焦りなど、人の心が波立っていると、その声は聞こえにくくなってしまうのです」


案内人の言葉は、ユイナがこれまでの人生で、漠然と感じてきたことの、答え合わせのようでした。


「この〝果ての島〟は、その自然の力が、世界で一番満ちている場所。だからこそ、その心と響きあうことができない者は、中に入ることができないのです。この島は、人を拒むのではありません。ただ、その声が聞こえない者にとっては、この島の空気そのものが、あまりにも重く、苦しいだけだから……」


ユイナは、自分の胸元にそっと手をやりました。そこには、いつも父の形見である、ワインカラーのカチューシャが、彼女の心を守るように存在しています。


(お父さん……) 遠い北の森からやってきたお父さんは、不思議な力を持つユイナのことを、誰よりも理解してくれていました。この耳も、この力も、お父さんから受け継いだ、大切な宝物。そのお父さんが、いつも言っていました。


『ユイナ。お前のその力は、お前自身のためだけにあるんじゃない。本当にそれを必要とする人のために使いなさい』 その言葉の意味が、今、ようやく、本当の意味でわかったような気がしました。この力は、自然の声を聞く力。そして、その声を、まだ聞くことができない人たちのために、届けてあげるための力なのだと。


案内人は、そんなユイナの心の変化を、すべて見通しているかのように、優しく微笑みました。

「さあ、参りましょう。この島の恵みである〝月影草〟をいただくには、この島の主、すなわち、この島の心そのものである大いなる存在と、三つの約束をしていただく必要があるのです」

「約束……?」

「ええ。この島に滞在し、祝福にあずかるための大切な約束です。それは、あなたのこれからの人生の道しるべともなるでしょう」


案内人は、ユイナを島の中心へと、ゆっくりと誘いました。 一歩、森へと足を踏み入れると、空気がさらに濃密になるのを感じます。樹々の葉はエメラルドのように輝き、地面にはベルベットのような苔が、星の光を宿したかのようにほのかに光っていました。


やがてたどり着いたのは、島の、まさに心臓部とでも言うべき場所でした。


何千年もの時を生きているであろう、巨大なガジュマルの樹が、いくつもの気根を大地に下ろし、まるでこの島全体を支える神殿のように、荘厳にそびえ立っています。その場所だけ、天からまっすぐに光の柱が降り注ぎ、空気は祈りそのもので満たされているかのようでした。


「さあ、ユイナさん。心の準備はよろしいですか?」

案内人の声が、穏やかに、けれど厳かに響きます。 ユイナは、ごくりと喉を鳴らし、まっすぐに頷きました。怖い、という気持ちはありませんでした。むしろ、これから始まる、自分の本当の「お仕事」を前にして、身が引き締まるような、清らかな気持ちでいっぱいでした。


「では、一つ目の約束です」

案内人の声が、ガジュマルの樹に、そしてユイナの魂に、深く響き渡ります。


「一つ目は、『いかなる時も、自然の声に耳を澄まし、その導きに従って歩むこと』。嬉しい時、楽しい時だけでなく、道に迷った時、悲しくて心が折れそうな時、そして、自分の考えや感情が、嵐のように荒れ狂う時こそ、その静かな声に耳を澄まし、信じ、頼り、そして、その導きに従って進むと、約束できますか?」


ユイナは、静かに目を閉じました。 自然の声に従う。それは、言葉で言うほど、簡単なことではないでしょう。 海人を失った(かもしれない)悲しみ。見知らぬ客人を助けなければならないという責任。そして、自分自身の、ちっぽけなプライドや、見栄。そういうものが、きっとこれからも、その声をかき消そうとするに違いありません。


でも、とユイナは思いました。 それでも、私はその声を聞き続けたい。お父さんが教えてくれたように、お母さんがそうであったように。この力は、私のものじゃない。自然の心が、私を通して、誰かを助けようとしているのだから。


彼女は、胸のカチューシャを、そっと握りしめました。それは、父との約束の証。そして、これから交わす、島の心との新しい約束の礎となるものでした。


(私、できます)

心の中で、強く、そう思いました。それは、誰に強制されたわけでもない、彼女自身の魂からの答えでした。


「はい。約束します」

ユイナがそう答えた、その瞬間。 巨大なガジュマルの樹の葉が、まるで彼女の決意に応えるかのように、ざあっと祝いの拍手のように、一斉に、喜びに満ちて揺れ動きました。その音は、まるで音楽のようでした。ユイナは、自分が島の心に受け入れられたことを、はっきりと感じたのでした。

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