第10話 ひとりぼっちの第一歩
船は、まるで夢の中を漂うように、光り輝く島へと静かに、そしてゆっくりと近づいていきました。
入り江の水は、空の色を映して、どこまでも優しく澄みきっています。浜辺には、ハイビスカスや月見草、そしてこの島にしか咲かないであろう、虹色の小さな花々が、「ようこそ」とささやいているかのように咲き乱れていました。それは、ユイナが今まで見たどんな景色よりも、あたたかくて、穏やかな場所でした。彼女の魂が、ずっと昔からこの場所を知っていたかのような、不思議な懐かしささえ感じられました。
「着いたな、ユイナ」
海人さんが、心からほっとしたように、それでいて少しだけ誇らしげに言いました。彼の横顔は、長い旅の疲れと、目の前の絶景に対する畏敬の念で、いつもよりずっと大人びて見えました。
船が、柔らかな白い砂浜に、そっと乗り上げます。海人さんは先に飛び降りると、振り返り、その大きな手をユイナに差し伸べてくれました。
「ありがとう、海人さん。あなたがいなかったら、絶対にここまで来られなかった」
ユイナは、心からの感謝を込めてその手を取りました。彼の手は、ごつごつとしていて、潮と太陽の匂いがしました。それは、ユイナをここまで守り抜いてくれた、頼もしくて、優しい手でした。
ユイナもまた、伝説の島の柔らかな砂に、第一歩を踏みしめます。わくわくする気持ちと、カフェで苦しむあの人を救えるという強い希望で、胸がいっぱいでした。
でも、そのときです。
二人が、花畑へと足を踏み入れようとした、まさにその瞬間。
まるで、水面にそっと指で触れたかのように、二人の目の前の空間が、きらきらと陽炎のように、ふわりと揺らめきました。それは、目には見えないけれど、確かにそこにある、あたたかくて分厚い空気のカーテンみたいなものでした。それは威圧するでもなく、ただ静かに、そこにあるがままに存在し、この先が特別な場所であることを告げていました。
「うわっ!?」
一歩先んじていた海人さんが、その見えないカーテンに押し返されるように、たたらを踏みました。まるで、丁寧だが有無を言わせぬ力で、「お客様、ここから先はご遠慮ください」と制されたかのようです。
「なんだ、これ……? 壁か……?」
ユイナは、その不思議な揺らめきに、おそるおそる手を伸ばしてみました。
すると、彼女の指先は、何の抵抗もなく、すうっとその向こう側へと通り抜けたのです。まるで、暖かい蜂蜜の中に手を入れたかのような、甘やかで心地よい感覚。カーテンの向こうは、花の蜜の甘い香りと、生命力に満ちた空気が満ちていて、深呼吸するだけで、旅の疲れが癒えていくようでした。まるで、島そのものが、ユイナを「おかえりなさい」と抱きしめてくれているかのようです。
「私……入れるみたい」
その事実に安堵しながらも、ユイナの心には一抹の不安がよぎります。
「本当か!?」
海人さんも、もう一度、希望を込めて手を伸ばします。でも、彼の指先は、まるで「ごめんなさいね」と優しく、けれどきっぱりと断られるかのように、それ以上先へは進めません。何度試しても、その見えない壁は、彼だけを頑なに拒み続けました。
「どうして……なんで、俺だけ……」
海人さんの声に、だんだんと焦りの色が浮かびます。彼のプライドが、そしてユイナを守るという彼の使命感が、この理不尽な拒絶によって傷つけられていくのが、ユイナには痛いほどわかりました。
「この島は、選んでいるんだわ……」
ユイナは、悲しい気持ちを胸に感じながら、ぽつりと呟きました。その言葉が、残酷な真実であることを、彼女自身も悟り始めていたのです。
「きっと、この島は、優しい心の持ち主しか、入れてくれないのよ」
ユイナが言った「優しい心」とは、強さや勇気のことではありません。この島の生命と、静寂と、時間に寄り添える、ただ、ありのままでいられる心のこと。彼女の力は、まさにそういう性質のものでした。
「優しい心だと? ふざけるな!」
海人さんの声が、少しだけ大きくなりました。納得できるはずがありません。命がけで嵐を越え、ようやくたどり着いた約束の場所を、目の前にして「あなたには資格がありません」と突きつけられるなんて。
「俺は、あんたを守るって、そう決めたんだ!あんた一人だけを行かせるなんてこと、できるわけないだろ!」
彼の叫びは、怒りというよりも、無力感と、ユイナを一人にしてしまうことへの恐怖から来るものでした。彼は、悔しさと焦りに任せて、見えない壁を、もう一度強く押しました。
「海人さん、やめて! 島さんが嫌がってる! お願いだから!」
ユイナの叫びも、彼の耳には届きませんでした。彼には、ユイナが感じている島の意志が、わからないのです。
「どいてくれよっ!」 海人さんが、諦めきれず、ぐっと全体重をかけた、その瞬間でした。
島が、まるで深いため息でもするように、ふわりと、けれど抗うことのできない力強い息を吐き出しました。
「うわあああああっ!」
それは攻撃というにはあまりに穏やかで、けれど逆らうことのできない、自然の摂理そのもののような力でした。海人さんの体は、ぽーんと軽く弾き飛ばされ、あっという間に海へと落ちてしまいます。そして、まるで見計らったかのように、島の周りに再び白い霧が立ち込め、彼の姿を、そして彼が乗ってきた船ごと、あっという間に隠してしまいました。
「海人さんっ!!」
ユイナは、心臓が氷の塊になったかのように感じながら、必死にその名を呼びました。しかし、返ってくるのは、静かな波の音だけ。さっきまで隣にいたはずの、あたたかくて大きな存在が、どこにもいなくなってしまったのです。彼の匂いも、声も、体温も、すべてが、この世界から消えてしまいました。
「いや……いやっ……!待って、行かないで……!」
ユイナは、その場にぺたんと座り込んでしまいました。膝から力が抜け、砂の上に崩れ落ちます。
私のせいだ。私が、無理を言ったから。私が、海人さんをこんな危険な旅に連れ出してしまったから……。
後悔と自己嫌悪が、真っ黒な奔流となって、彼女の心を飲み込んでいきます。彼の、昼間の浜辺での怒った顔。それでも、夜には、私のために船を出してくれた、不器用で優しい顔。嵐の中で、私を信じてくれた、力強い横顔。その一つ一つが、鋭いガラスの破片となって、胸に突き刺さりました。
涙が、あとからあとから溢れてきて、止まりませんでした。あんなに綺麗だと思った花畑が、今はただ、色褪せてぼやけて見えます。一人ぼっち。この、あまりに美しく、あまりに静かすぎる島で、たった一人ぼっちになってしまった。
どれくらい、そうしていたでしょうか。
そのとき、そっと。 悲しみにくれる彼女の頬を、なぐさめるように優しい風が撫でていきました。
『ユイナ。顔を上げて』
風さんの声が、心に直接、けれど静かに響きます。
『悲しいね。辛いね。君の心が、張り裂けそうなのが、僕にも伝わってくるよ。でもね、ユイナ』
その声は、ただ優しいだけではありませんでした。厳かで、真実の重みがありました。
『彼のことを本当に思うなら、今は進むんだよ。君がやるべきことをやり遂げて、笑顔で帰ってくることが、彼にとっての一番の救いになるんだから。彼が命がけで君をここに連れてきた意味を、無駄にしてはいけない』
「でも……私……一人じゃ……。海人さんがいないのに、私一人でなんて……」
声にならない声で、ユイナは訴えます。
『君は、一人じゃないよ。僕がいつもそばにいる。それにね、目には見えなくても、君と彼の心は、ちゃんと繋がっているんだ。彼が君を思う気持ちが、今、君を守る力の一部になっている。だから、信じるんだ。彼を。そして、君自身を』
風さんの言葉は、冷たく凍てついていたユイナの心を、じんわりと、けれど確実に温めてくれました。
そうです。こうして泣いているだけでは、何も始まりません。海人さんに「ただいま」って、もう一度、満面の笑みで言うためにも。そして、カフェで待っている、名前も知らないお客さんを助けるためにも。私は、前に進まなくちゃ。
ユイナは、涙でぐしゃぐしゃの顔を、ごしごしと手の甲で力強く拭うと、震える足で、ゆっくりと、しかし、確かに立ち上がりました。
そして、もう一度、光のカーテンの向こう側、静寂に包まれた神聖な森を見つめます。その潤んだ瞳には、深い悲しみの色と共に、決して揺らぐことのない、小さな灯火のような決意が、はっきりと宿っていました。
「……はい、行きます」
たくさんの悲しみと、大切な友達への想いを、すべて胸に抱きしめながら。ユイナは、一人、伝説の島へと、その小さな第一歩を踏み出したのでした。約束の薬草、〝月影草〟を、必ずこの手にするために。
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