第9話 魂の試練、ニライカナイの門
二人の心が、嵐の中ですれ違い、そして再び夜明けの光のように固く一つになった、その時でした。まるで世界が祝福の息をふうっと吐き出すように、彼らを閉ざしていた乳白色の霧が、ゆっくりと、そして完全に晴れ渡っていったのです。
目の前に現れたのは、人の言葉では到底表現しきれないほどに荘厳で、静謐(せいひつ)な海の景色でした。空は、どこまでも深く磨き上げられた瑠璃の色を湛え、広大な海は、その空を完璧に映し出す鏡のように、静まり返っています。そして、遠くの水平線には、まるで天へと続く道を示すかのように、巨大な白い雲の峰が、太古の龍の背骨のごとく、どこまでもどこまでも、雄大に連なっていたのです。
「すごい……」
ユイナは、船べりに立ったまま、思わず息をのみました。それは、ただ美しいという言葉では足りない、人の心の奥深くに直接語りかけてくるような、神々しいまでの光景でした。恐ろしいほどに静かで、魂が洗い清められるほどに、美しい。彼女の心は、歓喜と畏敬の念でいっぱいになり、自然と涙が頬を伝わりました。
「ああ……。間違いない。じいさんたちが、海の向こうにあるという楽園――ニライカナイへ渡る龍の神様が通る道だって言っていたのは、このことかもしれねぇな」
隣に立つ海人の声にも、普段の快活さとは違う、自然への深い敬意がこもっていました。彼の漁師としての血が、この場所が人間が気安く足を踏み入れていい領域ではないと、告げているかのようでした。
しばらくの間、二人は言葉を交わすことも忘れ、ただ、その世界の圧倒的な造形に見入っていました。風は、先ほどまでの沈黙が嘘のように、再び穏やかに帆を撫で、小さな船は、まるで神々の領域へと招かれた巡礼者のように、静かにその光の海を進んでいきます。
「ねえ、海人さん。なんだか、この海、生きているみたい。あたたかい心で、私たちを迎え入れてくれているような気がする」
ユイナの言葉に、海人は静かにうなずきました。
「ああ。こんな穏やかな海は、俺も初めてだ。まるで、眠っている巨人の胸の上を、その呼吸を乱さないように、そっと歩かせてもらってるみてぇだな」
希望が、再び二人の心に力強く満ちていきました。あの雲の峰を越えれば、きっと約束の島がある。ソファで苦しむあの人を救える。そう信じるのに十分すぎるほどの神聖な静けさがそこにはありました。
しかし、その静寂こそが、次なる試練の前触れであることを、ユイナだけが、その不思議な力で、かすかに感じ取っていました。
穏やかだった風が、ぴたり、と生命活動を止めたかのように途絶えたのです。さっきまで二人の頬を優しく撫で、励ましてくれていた風さんが、息を殺したように沈黙する。ユイナは、自分の半身である風の存在が、まるで目に見えない壁の向こうへ弾き飛ばされたかのような断絶感に、ぞっとしました。
(風さん……?)
その直後、海の底から湧き上がるような、不気味で重たい空気が、肌にまとわりつくように船を包み込みました。それは、ただの天候の変化ではありませんでした。まるで、巨大で計り知れないほど古い何者かの「視線」が、自分たちに向けられたような、魂そのものを値踏みされるような、厳かな圧迫感でした。
「……来るぞ、ユイナ! マストに体を縛れ! 絶対に手を離すなよ!」
海人の、これまで聞いたこともないほど切迫した叫び声が響きます。彼が言い終わるのと、空がみるみるうちに厚い鉛色の雲に閉ざされ、世界から一切の光が失われるのは、ほとんど同時でした。
穏やかだった海面は、怒り狂った神の感情のように、一枚一枚が黒く、鋭く、荒々しく逆立ち始めます。ゴウ、と地鳴りのような風の咆哮が響き渡り、小さな船は、まるで巨人の掌の上で弄ばれる木の葉のように、激しく、無慈悲に揺さぶられました。
これが、〝果ての島〟が、訪れる者に課す最後の試練。この聖域へ足を踏み入れる資格があるかどうかを問う、魂の嵐でした。
「きゃあああっ!」
街の家ほどもあるのではないかと思える巨大な波の壁が、意思を持っているかのように、次から次へと、容赦なく船に襲いかかります。小さな船の骨格である竜骨が、メキメキと悲鳴をあげ、今にも砕け散ってしまいそうでした。
「くそっ! なんだってんだ、この嵐は……! 生きてやがる!」
海人は、常人なら一瞬で舵を手放してしまうであろう暴風と波濤(はとう)の中で、必死に舵を操ります。日に焼けた腕には血管が浮き上がり、食いしばった歯の間から、苦悶のうめきが漏れる。彼の漁師としての二十数年の経験と、体に染みついた海の知識そのすべてがこの絶望的な状況で、かろうじて船を転覆から守っていました。
ユイナは、海人の言いつけ通り、マストに体を固く縛り付けながら、必死に意識を集中させ、風の声を探しました。
(風さん! どこにいるの!? お願い、力を貸して! 私の声に応えて!)
しかし、暴風の轟音は、まるで分厚い壁のようでした。その中で、いつもの優しい風さんの声を探すのは、砂漠でたった一粒の砂金を探すような、途方もない作業に思えました。叩きつける雨と潮水が、容赦なく体温を奪っていきます。怖い。体の芯から震えて、今にも泣き出してしまいそう。
ふと、舵を握る海人の、苦痛に歪む横顔が見えました。その瞬間、ユイナの心に、氷のように冷たい罪悪感が突き刺さります。
(私の、せいだ……)
私が、わがままを言ったから。〝果ての島〟へ行きたいなんて、無謀なことを口にしたから。海人さんを、こんな死の淵まで連れてきてしまった。もし、海人さんに何かあったら、私は……。
後悔の念が、嵐の恐怖よりも強く、彼女の心を暗く閉ざしていきました。もう、だめかもしれない。そう思った時、彼女の脳裏に、カフェのソファで苦しげに眠るあの客人さんの顔が浮かびました。そして、幼い頃から父が繰り返し聞かせてくれた言葉が、嵐の轟音を貫いて心の奥で強く響いたのです。
『お前の力は、本当にそれを必要とする人のために使いなさい』
(違う……! 私は、逃げるためにここに来たんじゃない!)
ユイナは、かぶりを振りました。恐怖と罪悪感に、心を明け渡してはいけない。この嵐が試練だというのなら、試されているのは、私の覚悟そのものだ。あの人を助けるという、私の約束の重さなのだ。
ユイナは、固く目をつぶりました。心を澄ませる。轟音を雑音として聞き流し、その奥にある、たった一つの、澄んだ響きを探す。
すると、どれだけそうしていたでしょうか。荒れ狂う風の隙間に、まるで細い蜘蛛の糸のようにか弱く、けれど確かな声が、彼女の心に触れたのです。
『ユイナ……まっすぐに……! 恐れず、嵐の懐へ……!』
それは、この巨大な嵐に力で抵抗するのではなく、嵐の呼吸そのものを読み、その荒々しい流れの中に、かろうじて存在する細い活路を見出せという、風さんの必死の助言でした。
「海人さん!」
ユイナは、叩きつける雨と風の中で、喉が張り裂けんばかりに叫びました。
「聞こえる!? 風さんが、道を教えてくれてる! あの、目の前の、一番大きな波の、右側の斜面! あそこだけ、ほんの少しだけ、流れが緩やかだって!」
「なにっ!? 正気か、ユイナ!」
海人が、信じられないという顔で叫び返します。常識で考えれば、自殺行為でした。一番危険に見える巨大な波の壁へ、自ら飛び込んでいくなど。しかし、彼は一瞬だけユイナの、恐怖に濡れながらも決して揺るがない瞳を見ると、その光を信じることを選びました。
「……わかった! 信じるぜ、お前のこと! お前のその耳と、俺の腕で、越えてやる!」
彼は、まるで自分の腕が引きちぎれるほどの力で、大きく舵を切りました。
「うおおおおおっ!」
船は、巨大な水の壁、その斜面を、まるで滑り降りるように駆け抜けます。想像を絶する衝撃と水圧が二人を襲い、一瞬、ユイナは意識が遠のくのを感じました。しかし、船は砕けることなく、奇跡的にその絶望の壁を突破し、その先へと進むことができたのです。
それから、どれくらいの時間、その悪夢のような死闘が続いたでしょうか。
それは、もはやただの航海ではありませんでした。ユイナは風の声を聞き魂を研ぎ澄ませて、嵐の中の細い光の道筋を見つけ出す。海人はその声を信じ、全身全霊で船を操り、その道筋を寸分違わずトレースする。それは、言葉を超えた魂と魂の連携でした。
二人は、お互いの存在だけを唯一の頼りとして、この海の果てにある神々の聖域への入り口、巨大な自然の試練「ニライカナイの門」と戦い続けたのです。
そして、その瞬間は、あまりにも突然、あまりにも静かにやってきました。まるで、長く続いた試練の終わりを告げるかのように。船が、最後の巨大な波濤を突き破ったかと思うと、轟音と漆黒の闇の世界から、ふっと、何の予兆もなく、完全な静寂と柔らかな光の中へと抜け出したのです。
あれほど荒れ狂っていた波と風は、まるで最初から存在しなかったかのように、嘘のように凪いでいました。疲労困憊の二人は、ぜぇぜぇと肩で息をしながら、呆然と顔を見合わせます。そしてゆっくりと、信じられないという思いで、目の前の光景に目を向けました。
そこに、その島はありました。
まるで天空に浮かんでいるかのように、穏やかで神聖な光に全体を包まれた、豊潤な緑の島。人の手が入ったことのない原生の巨大な樹々が、威厳に満ちて天を突き、その枝の間を、見たこともない極彩色の鳥たちが、ゆったりと優雅に飛んでいます。
島の中心からは、まるで溶かした水晶のような清らかな滝が幾筋も流れ落ち、その飛沫が日の光を浴びて、いくつもの小さな虹を作りながら、瑠璃色の湖へと注いでいました。
「……果ての、島……」
ユイナの唇から、感嘆とも祈りともつかない、かすれた声がこぼれました。海人も言葉を失い、ただその神秘的な島の姿を食い入るように見つめています。
最後の試練を乗り越えた先に見つけた、あまりにも美しく、あまりにも荘厳な光景。
ユイナと海人を乗せた小さな船は、まるで自らの意志を持ったかのように、吸い寄せられるように、祝福の光が満ちる伝説の島へと、静かに静かに進み始めたのでした。
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