二人だけの価値観

トムさんとナナ

二人だけの価値観

## 第一章 無料の出会い


「高すぎる。」


美術館の絵画の前で、一人の男性が小さくつぶやいた。


橋本花子は振り返ると、少しヨレたTシャツを着た、髪の毛が少しぼさぼさの男性が立っていた。


彼は真剣な表情で絵画を見つめている。


(この人も!)


花子の心は躍った。


今日は無料開放日の美術館で、普段は入場料を払ってまで見に来ることはない花子だったが、「無料」という言葉に惹かれてやってきたのだ。


そして今、目の前には自分と同じような価値観を持った男性がいる。


「そうですよね!」花子は思わず声をかけた。


「確かに、こういう絵画って値段がとんでもないですもんね。」


男性は驚いたように振り返った。


濃い眉毛の下に、優しそうな瞳があった。


「ああ、えっと...」男性は困ったような笑顔を浮かべた。


「まあ、そうですね。」


「私、橋本花子です。実は私も、普段はお金をかけるのが苦手で...今日は無料だから来てみたんです。」


「田中太郎です。よろしく。」


太郎と名乗った男性は、花子の熱意に押されるように握手を交わした。


「太郎さんも、やっぱりお金は大切にする方なんですね!」


花子の目がキラキラと輝いた。


「もしよろしければ、今度一緒にお茶でも...もちろん、お手頃な場所で!」


太郎は少し戸惑いながらも、花子の笑顔に押し切られるように頷いた。


「ええ、まあ...」


こうして二人の出会いは始まった。


しかし、この時はまだ、二人の間に大きな誤解があることを、どちらも気づいていなかった。



## 第二章 節約デートの始まり


一週間後、花子は太郎との初デートに意気込んでいた。


待ち合わせ場所は駅前の無料Wi-Fiが使えるカフェ。


もちろん、一番安いコーヒーを注文するつもりだった。


「太郎さん!」花子は手を振った。


太郎は例の通り、同じようなヨレたTシャツを着て現れた。


花子は密かに感心した。


(やっぱり!お洋服にもお金をかけない主義なのね。素晴らしいわ。)


「今日はどちらへ?」太郎が尋ねた。


「実は、今日は市営動物園が無料開放なんです!それに、お弁当も作ってきました。」


花子は誇らしげにお弁当箱を持ち上げた。


「全部で交通費だけで済んじゃいます!」


太郎の表情が少し曇った。


「あの...花子さん、別にそこまで...」


「いえいえ!太郎さんみたいに、しっかりとお金を管理している人だからこそ、こういうデートを提案しているんです。」


花子の熱意に、太郎は何も言えなくなってしまった。


動物園では、花子が用意した手作り弁当を公園のベンチで食べた。


「太郎さん、いつも同じような服を着てらっしゃいますが、おしゃれには興味がないんですか?」花子が尋ねた。


「ああ、これ?」太郎は自分のTシャツを見下ろした。


「似たような服ばっかりで、使いまわしてるんだ。」


「やっぱり!」花子は感動したような表情を浮かべた。


「こんなところまで倹約されているなんて...見習わなくちゃ。」


太郎は何だか複雑な気持ちになった。


確かに彼は服装に無頓着だったが、それは節約のためではなく、単に興味がなかっただけだった。


でも、花子がそんなに嬉しそうにしているのを見ると、訂正するのも何だか気が引けた。


「花子さんは、どうしてそんなに節約に熱心なんですか?」太郎が聞いた。


「お金って、人生で本当に大切なものじゃないですか。将来のことを考えると、無駄遣いはできないし...それに、お金をかけなくても楽しめることって、たくさんあるんですよね。」


花子の真剣な表情を見て、太郎は何だか胸がキュンとした。


確かに彼女の言うことには一理あった。


「そうですね。」太郎は微笑んだ。


「今日も、お金をかけなくても十分楽しいです。」


花子の顔がパッと明るくなった。


「本当ですか?太郎さんがそう言ってくださると嬉しいです!」


こうして、二人の節約デートは続いていった。



## 第三章 食の好みという新たなすれ違い


数回のデートを重ねた後のことだった。


いつものようにお弁当でピクニックを楽しんだ帰り道、花子が提案した。


「太郎さん、今日の夜はどこかで外食でもどうですか?たまには、美味しいものを食べたいなって。もちろん、お手頃なお店で!」


しかし太郎は首を振った。


「うーん、俺、あんまり外食は好きじゃないんだ。」


花子の心の中で、また一つパズルのピースがはまった気がした。


(外食は高いからね...やっぱり太郎さんは徹底してるわ!)


「そうですよね!外食って、どうしても割高になっちゃいますもんね。」


「いや、そういうことじゃなくて...」


太郎は何か言いかけたが、結局言葉を飲み込んだ。


実際のところ、太郎が外食を避けるのは、お金の問題ではなく、単に外食の味が濃すぎて苦手だったからだった。


彼は薄味を好み、素材の味を楽しみたいタイプだった。


しかし、花子の誤解を解く勇気がなかった。


別の日、花子が手作りのおにぎりを持参した時のことだった。


「太郎さん、これ、昨日炊いたご飯で作ったんです。」


太郎はおにぎりを一口食べて、目を細めた。


「ああ、お米、久しぶりに食べたな。」


花子は驚いた。


「え?もしかして、お米は高いから節約してるんですか?」


「いや、別にそういうわけじゃ...主食はオートミールなんだ。」


「オートミール!?」花子は唖然とした。


オートミールといえば、健康志向の人や、ダイエット中の人が食べるイメージがあった。


まさか節約のため?


「オートミールの方が、お米より安いんですか?」


「安いっていうか...」


太郎は困ったような顔をした。


「栄養バランスがいいし、調理も簡単だから。」


花子は感心した。


太郎の節約に対する意識は、自分の想像以上だった。


栄養を考えながら、コストパフォーマンスまで計算している。


(すごい...私なんて、まだまだ甘かったわ。)


しかし実際は、太郎がオートミールを選ぶ理由は全く違っていた。


彼は単に、調理に時間をかけるのが面倒で、手軽に食べられるオートミールを習慣にしていただけだった。


お米を炊く手間さえ、彼には煩わしかったのだ。


でも、花子があまりにも感心してくれるので、太郎は真実を言い出せずにいた。



## 第四章 真実の露見


二人が知り合って二か月が経った頃、すべてが変わった。


その日、花子は太郎から連絡を受けた。


「花子さん、実は今日、僕の絵が売れたんです。よろしければ、お祝いに一緒に食事でも...」


「絵?」花子は首をひねった。


「太郎さん、絵を描かれるんですか?」


「ああ、実は僕、画家なんです。って言っても、まだまだですけど。」


花子は驚いた。


太郎が画家だったなんて、全く知らなかった。


「それで、その絵がいくらで売れたんですか?」


「ええと...50万円です。」


電話の向こうで、花子が息を呑む音が聞こえた。


「50万円!?」


「はい。だから今日は、少し良いお店で...」


「ちょっと待ってください!」花子は混乱していた。


「太郎さんが50万円で絵を売る...でも、あの時美術館で『高すぎる』って...」


太郎は、ついに誤解を解く時が来たと悟った。


「花子さん、実は...僕があの時言った『高すぎる』は、値段のことじゃないんです。」


「え?」


「あの絵画の価値が、値段と見合っていないって意味だったんです。もっと高くても良いくらい素晴らしい作品だと思ったから。」


花子の中で、これまでのパズルのピースが一気に崩れ落ちた。


「じゃあ、太郎さんは...節約家じゃない?」


「はい...むしろ、お金の管理は苦手な方です。」


花子は呆然とした。


この二か月間の自分の思い込みが、すべて間違っていた。


「服も...オートミールも...」


「服は単に、おしゃれに興味がないだけです。オートミールは、調理が楽だから食べているだけで...」


花子は顔を真っ赤にした。


自分がいかに勝手な思い込みで太郎を見ていたか、痛いほど分かった。


「ごめんなさい...私、勝手に決めつけて...」


「いや、僕も訂正するべきでした。でも、花子さんがあまりにも嬉しそうにしていたから...」


二人の間に、気まずい沈黙が流れた。



## 第五章 価値観の再構築


翌日、花子は太郎に会うことにした。


いつもの公園のベンチで、二人は向かい合って座った。


「太郎さん、昨日は驚きましたが...考えてみたら、私の方が悪かったんです。」


花子は深く頭を下げた。


「勝手に太郎さんを、自分の価値観に当てはめて決めつけて。本当にごめんなさい。」


太郎は首を振った。


「全然気にしてないよ。むしろ、花子さんのおかげで、今まで気にもしなかったことにも、価値があるって気づけたから。」


「え?」


「例えば、お金を計画的に使うことの大切さとか、無料で楽しめることの素晴らしさとか。今まで僕は、そういうことを全く考えずに生きてきた。」


太郎は微笑んだ。


「花子さんのおかげで、人生がもっと豊かになった気がします。」


花子の目に涙が浮かんだ。


「太郎さん...私も、太郎さんから学んだことがあります。」


「何ですか?」


「お金では測れない価値があるってことです。太郎さんが絵に込める情熱とか、美しいものを見つける感性とか...そういうものって、私の家計簿には載らないけど、とても大切なんですね。」


花子は太郎を見つめた。


「これからも、一緒に学んでいけませんか?お互いの価値観を尊重しながら。」


太郎の顔に、安堵の表情が浮かんだ。


「もちろんです。僕も、花子さんから学びたいことがたくさんあります。」


## 第六章 新しい「二人だけの価値観」


それから数か月が経った。


二人は互いの価値観を理解し、尊重し合うようになっていた。


「太郎さん、今日の家計簿、見てもらえますか?」


花子は太郎に家計簿アプリを見せた。


「絵具代、3,000円...」太郎は驚いた。


「花子さん、絵具なんて買ったんですか?」


「はい!太郎さんに絵を教えてもらおうと思って。


お金をかける価値があると思ったんです。」


花子は恥ずかしそうに微笑んだ。


「それに、太郎さんの『良いものにだけお金をかける』っていう考え方、素敵だと思って。」


太郎は感動した。


確かに最近の彼は、花子の影響で無駄遣いをしなくなり、本当に必要なものや価値があると思うものにだけお金をかけるようになっていた。


「僕も変わりました。」太郎は花子の手を取った。


「昨日、初めて家計簿をつけてみたんです。」


「本当ですか?」


「はい。花子さんが、お金を大切にする理由がよく分かりました。将来のことを考えて計画的に生活するって、すごく大切なことですね。」


二人は顔を見合わせて笑った。


「でも、太郎さん?」花子がいたずらっぽく言った。


「家計簿に『オートミール代』って書かれても困るんですけど...」


「あ、それは...」太郎は苦笑いした。


「せめて『お米代』にしてもらえませんか?花子さんのおにぎり、美味しいので。」


「もう!」花子は太郎の腕を軽く叩いた。


「でも、今度オートミールを使ったおにぎりも作ってみますね。太郎さんの好みも取り入れて。」


「それは...どうなんでしょうか。」


二人は笑い合った。



## エピローグ


三年後。


太郎のアトリエ兼住居で、花子は家計簿をつけていた。


画面には「太郎作品売上」という項目があり、かなりの金額が記載されていた。


「花子、今日の絵、どうかな?」太郎が振り返った。


キャンバスには、二人が初めてピクニックをした公園の風景が描かれていた。


桜の木の下で、お弁当を食べる二人の姿が、温かく優しいタッチで描かれている。


「素敵...」花子は息を呑んだ。


「あの時の私たち、こんなに幸せそうに見えてたんですね。」


「僕には、君がいつもそう見えてるよ。」太郎は微笑んだ。


「太郎さん...この絵、売らないでもらえますか?」


「え?」


「私たちの思い出だから。お金には変えられない価値があります。」


太郎は驚いた。


以前の花子なら、「売れる値段を考えて」と言っていたかもしれない。


「代わりに、これをどうぞ。」花子は小さな包みを差し出した。


中には、オートミールで作った小さなおにぎりが入っていた。


「オートミールおにぎり、ついに完成しました!」


花子は誇らしげに言った。


「栄養バランスも良くて、コストパフォーマンスも抜群です。太郎さんの好みと、私の価値観が合わさった、私たちだけの食べ物です。」


太郎は一口食べて、目を見開いた。


「これ...美味しいです!」


「本当ですか?」


「はい。何だか、僕たちみたいですね。」


「どういう意味ですか?」


「最初は変な組み合わせだと思ったけど、実際にやってみたら、すごく良いバランスになった。」


花子は顔を赤らめた。


「太郎さん、それって...」


「プロポーズです。」太郎は真剣な顔で言った。


「僕たちの価値観を合わせて、一緒に生きていきませんか?節約も、芸術も、お互いを大切にしながら。」


花子の目に涙が浮かんだ。


「はい...でも、結婚式は質素にお願いします。」


「もちろん。でも、君のウェディングドレスだけは、一番良いものを選ばせてください。君が一番輝いて見えるやつを。」


花子は太郎の胸に飛び込んだ。


「ありがとう、太郎さん。私たちらしい結婚式にしましょう。」


窓の外では、桜の花びらが舞っていた。


二人の新しい人生が、今始まろうとしていた。


お互いの価値観を理解し、尊重し合いながら、二人だけの「価値観」を作り上げていく人生が。


太郎のキャンバスには、新しい絵が描かれ始めていた。


それは、オートミールおにぎりを分け合う二人の姿だった。


一見奇妙な組み合わせかもしれないが、その絵からは、深い愛情と理解が溢れていた。


「太郎さん、今度は私も絵を描いてみたいです。」花子が言った。


「何を描きたいんですか?」


「太郎さんが初めて家計簿をつけている時の顔です。すごく真剣で、可愛かったから。」


太郎は苦笑いした。


「それは...恥ずかしいですね。」


「でも、その絵は絶対に売りません。私たちの宝物です。」


「僕も、君の絵は絶対に売りませんよ。」


二人は微笑み合い、また新しい一日を迎える準備を始めた。


お金の価値観も、芸術の価値観も、そして人生の価値観も、すべてを分かち合いながら。


それが、二人だけの価値観だった。


**おわり**


---


*この物語は、異なる価値観を持つ二人が、お互いを理解し尊重することで、新しい「二人だけの価値観」を築いていく姿を描いたものです。読者の皆様にも、人との違いを受け入れ、そこから新しい豊かさを見つけていただけることを願っています。*

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