動き出した羅針盤

 大学三年生の夏。うだるような暑さが続く七月の終わり、スマートフォンの画面に懐かしい名前がポップアップした。中学時代の友人、田中くんからだった。

『中学の同窓会やるぞ!夏休みに!聡太も大阪から来るらしいから、お前も絶対来いよ!』

 聡太くんが、来る。

 その文字を見た瞬間、心臓が大きく跳ねて呼吸が少しだけ浅くなるのを感じた。

 会いたい。会ってみたい。八年という月日が、彼をどう変えたのか。私のことを、どう思っているのか。知りたい、という気持ちが洪水のように押し寄せてきた。

 でも、同時に怖かった。私には、付き合って四年になる彼氏がいる。聡太くんに会ってしまったら、今、私が大切に築き上げてきたこの穏やかな日常が、壊れてしまうかもしれない。心の奥で固めていたはずの氷が、完全に溶け出してしまうかもしれない。

『彼氏と旅行に行く予定があるから、行けるか分からないな』

 一度は、そう返信しようとした。嘘だった。そんな予定はない。でも、それが一番正しい選択のような気がした。

 けれど、私の指は、結局違う文字を打ち込んでいた。

『分かった。予定、調整してみる』

 自分の本当の気持ちから、もう逃げることはできなかった。

 同窓会の当日。彼氏には「中学の同窓会があるから」と正直に伝えた。彼は「楽しんでおいで」と、いつもと変わらない優しい笑顔で送り出してくれた。その優しさが、少しだけ胸に痛かった。

 指定された居酒屋の前まで来たものの、中に入る勇気が出ずにいると、幹事の田中くんが「おー、音無!ちょうどよかった!」と駆け寄ってきた。

「どうしたんだよ、入り口で。さ、行くぞ!」

「う、うん。でも、ちょっと心の準備が…」

「大丈夫だって!みんな待ってるからさ!」

 強引に腕を引かれ、私は半ば引きずられるようにして賑やかな個室の扉の前に立たされた。田中くんは悪戯っぽく笑うと、勢いよく扉を開けた。

「ごめんごめん、遅れた!ちょっと、スペシャルゲスト連れてきたぜ!」

 彼の大きな声に、室内にいた全員の視線が私に突き刺さる。懐かしい顔ぶれが「おおー!」「琴葉じゃん!」と歓声をあげた。その視線の輪の中心で、私はどうしていいか分からず、ただ曖昧に笑うことしかできなかった。

 そして、その輪の中にいる、一人の男性に気づいた時、私は息を呑んだ。

 木崎聡太くんだった。

 時間が、止まった。周囲の騒がしさが、急に遠くなる。

 彼は、私がこの会に来ることを知っていたのだろう。驚いたように大きく目を見開き、その場に立ち尽くしていた。

 私の記憶の中にいる彼は、まだ制服がぶかぶかだった少年だ。でも、目の前にいるのは私の知らない大人びた男性だった。背はぐんと伸びて、肩幅も広くなっている。少し焼けた肌。白いTシャツの上から羽織ったシャツの着こなしも、洗練されている。でも、少しだけ困ったように眉を寄せる表情や、私を見て大きく見開かれた瞳は、紛れもなく私の知っている聡太くんだった。

「……木崎、くん?」

 かろうじて、そう声を絞り出すのが精一杯だった。

「……久しぶり、音無さん」

 彼の声。少し低くなったけれど、あの頃の面影が確かにある。その声を聞いた瞬間、八年間という時間が一瞬で消え去り、私の心は中学一年のあの教室に引き戻されていた。

 田中くんたちの巧妙すぎる計らいで、空いていた席は彼の隣だけだった。私はそこに座るしかなく、心臓が破裂しそうなほどうるさく鳴っていた。何を話せばいいのか分からない。ぎこちなく、お互いの大学のことやサークルのことを話した。

「彼氏とは、順調なの?」

 不意に、彼がそう尋ねてきた。まっすぐな瞳だった。私は、その視線から逃げるように、少しだけ俯いた。

「うん。まあ、それなりに、ね」

 そう答える私の声は、自分でも分かるくらいに弱々しく震えていた。嘘はついていない。順調なはずだ。でも、彼の前でそう言うことはなぜかひどい裏切りのように感じられた。

.

 翌日、私たちは二人きりで会うことになった。これもまた、友人たちの分かりやすすぎるお膳立てのせいだった。

 二人で、隅田川のほとりを歩いた。八年前、最後に二人で歩いた場所。

 川沿いのカフェで、私たちは空白の八年間を埋めるようにたくさんのことを話した。彼が大阪で写真に夢中になっていること。私がデザインの勉強に苦戦していること。

 そして、私は彼の口から忘れられない言葉を聞くことになる。

「あの花火大会の日、覚えてる?……俺の人生で、一番幸せな日だったから」

 彼のその言葉は、鋭い矢のように、私の心の最も柔らかい場所を射抜いた。

 私もだよ。私も、そうだったんだよ。

 喉まで出かかったその言葉を、私は必死に飲み込んだ。私には、その言葉を口にする資格なんてない。

「私ね」

 夕暮れの川沿いを歩きながら、私は、ずっと心に仕舞い込んできた本当の気持ちをようやく口にすることができた。

「木崎くんが転校するって聞いた時、ほんとはね、遠距離でもいいから付き合っていたいって、言いたかったんだ」

 言った後で、後悔が押し寄せた。今さら、なんてことを言ってしまったのだろう。彼を困らせるだけなのに。

「でも、言えなかった。聡太くんの負担になりたくなかったから。……ずるいよね、私。一番辛い役目を、聡太くんに押し付けた」

 涙が、こぼれそうになるのを必死で堪えた。

「俺の方こそ、ごめん。あの時、俺は逃げたんだと思う」

 聡太くんの声は、真剣で、そして優しかった。

「琴葉の気持ちを、ちゃんと聞こうともしないで」

 私たちは、八年の時を経て、ようやく本当の気持ちの欠片を交換することができた。それで十分だった。私たちはもう、あの頃の子供じゃない。お互いに、それぞれの八年間という時間がある。

 改札の前で、「またね」と手を振って彼と別れた。その背中が見えなくなるまで見送って、私は一人、電車に乗り込んだ。

 窓に映る自分の顔は、泣いているようにも、笑っているようにも見えた。

 心の羅針盤を固めていた氷が、音を立てて砕け散っていくのがはっきりと分かった。もう、見ないふりはできない。私の針は、ずっと、たった一つの場所を指し示していたのだ。

.

 聡太くんが大阪に帰ってから、私たちの間には、細く、けれど確かな糸が再び結ばれた。

 彼が撮ったという隅田川の夕景の写真が送られてきた日、私の心は温かい光で満たされた。それから、時々、他愛のないLINEを送り合うようになった。

『大学の近くに美味しいカフェができたよ』

『そっちの展示会、面白そうだな』

 その短いやり取りの一つひとつが、今の彼氏と過ごす時間よりもずっと私の心を躍らせた。その事実に気づいてしまった時、私は激しい罪悪感に襲われた。

 佐藤先輩は、何も変わらず私に優しかった。私の異変に気づいていたのかもしれない。けれど、彼は何も聞かず、ただ静かにそばにいてくれた。その優しさが、今はナイフのように私の胸を抉った。

 私は、彼を利用していたのかもしれない。聡太くんを忘れるために。一人になる寂しさから逃れるために。彼の純粋な好意に、私はずっと甘え続けてきたのだ。

 もう、これ以上、彼にも、そして自分自身にも、嘘をつき続けることはできなかった。

 木枯らしが吹き始めた、十一月の初め。

 私は、彼を大学近くの公園に呼び出した。聡太くんと最後に話した公園とは違う、もっと明るくて開けた場所。

「ごめんね、急に呼び出して」

「ううん、大丈夫だよ。どうしたの、改まって」

 彼は、いつもと変わらない笑顔で言った。その笑顔を見るのが、辛かった。

「先輩。……私、別れてください」

 私の言葉に、彼の顔からすっと表情が消えた。驚きよりも、どこか「やっぱり」という諦めが混じったようなそんな顔だった。

「……そっか。……やっぱり、忘れられないんだね。中学の時の、彼のこと」

 夏の同窓会の後から、彼はきっと気づいていたのだ。私が、遠いどこかへ行ってしまったことに。

「ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」

 謝ることしかできなかった。彼の優しさを裏切った私に、他に言える言葉などあるはずもなかった。

「琴葉が謝ることじゃないよ。俺が、君の心の一番にはなれなかった。それだけのことだから」

 彼は、最後まで優しかった。

「元気でね」

 そう言って、私の前から去っていく彼の背中は、私が今まで見たどんな景色よりも、寂しく見えた。私は、彼がくれた四年間の温かい時間を、自分の手で終わらせたのだ。涙が、後から後から溢れてきた。でも、これは私が自分で選んだ、私のための痛みだった。

.

 一人暮らしの部屋に帰り、ベッドに倒れ込む。心は空っぽだったけれど、不思議と後悔はなかった。むしろ、長い間背負っていた重い荷物を、ようやく下ろすことができたような、そんな解放感さえあった。

 八年間。それは、あまりにも長い遠回りだったかもしれない。たくさんの人を傷つけ、自分も傷ついた。でも、この時間がなければ、私は自分の本当の気持ちに気づけなかっただろう。聡太くんの大切さを、本当の意味で理解することはできなかっただろう。

 私は、ゆっくりと体を起こしスマートフォンの連絡先を開いた。

 そこに表示されている、「木崎聡太」の名前。

 何を話そう。急に電話をしたら、驚くだろうか。迷惑じゃないだろうか。一瞬、不安がよぎる。でも、もう迷わない。

 空白だった季節は、もう終わったのだ。

 私の心の羅針盤は、今、曇りなく、はっきりと、彼のいる方角を指している。

 私は、深呼吸を一つして、その名前を、そっと指でタップした。

 これから始まる、私たちの本当の第二章のために。

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