新しい光・消えない影
高校の入学式。真新しいセーラー服はまだ体に馴染まず、少しだけ心細い。知っている顔もちらほらいるけれど、ほとんどが新しい顔ぶれだった。この場所で、私は新しい三年間を過ごすのだ。聡太くんのいない、三年間を。
私は、美術部に入った。中学の時に描いた隅田川の花火の絵が、まだ私の心の中に鮮やかな記憶として残っていたからだ。静かな美術室で、黙々とキャンバスに向かう時間は、余計なことを考えずに済む、私にとって大切な逃げ場所になった。
そんな私の日常に、新しい光が差し込んできたのは、高校一年の秋のことだった。
「音無さん、だよね?中学の時、同じだった田中から話は聞いてるよ」
声をかけてきたのは、美術部の二年生の先輩だった。少し色素の薄い髪に、穏やかな目元。柔らかい物腰で、誰にでも優しいことで有名な人だった。佐藤先輩。それが、彼の名前だった。
「君の絵、好きだよ。すごく丁寧で、優しい色を使うよね」
彼は、私が描いていた夕暮れの公園の絵を見て、そう言って微笑んだ。褒められることには慣れていたけれど、彼の言葉は不思議とすんなりと心に入ってきた。聡太くん以外の人に、こんなふうに絵を褒められたのは初めてだったかもしれない。
それから、私たちは部活でよく話すようになった。先輩は、私の拙い絵の話をいつも真剣に聞いてくれたし、画材の選び方やデッサンのコツについても、丁寧に教えてくれた。彼の隣は、いつも居心地が良かった。穏やかで、温かい日だまりのような人だった。
聡太くんとは、正反対のタイプだったかもしれない。強引で、少し不器用で、でも太陽みたいに真っ直ぐだった聡太くん。それに比べて、佐藤先輩は静かな月のように、そっと隣で寄り添ってくれるような優しさを持っていた。
高校二年の春、先輩は部長になった。そして、その年の夏。部活の合宿の帰り道、駅までの道を二人で歩いている時だった。
「音無さん。もし、迷惑じゃなかったら……俺と、付き合ってくれませんか」
夕日が差し込むバス停で、彼は少し照れたように、でも真っ直ぐに私を見て言った。
予感は、あった。彼の視線に、特別な色が混じっていることには気づいていた。だから、驚きはしなかった。でも、すぐに「はい」と答えることはできなかった。
心の奥で、固めていたはずの氷が、ピシリと音を立てて軋んだからだ。聡太くんの顔が、一瞬だけ脳裏をよぎった。
私たちはもう、四年も前に別れた。彼には彼の生活があって、私には私の生活がある。もう、お互いの人生が交わることはないのかもしれない。聡太くんも、きっと大阪で新しい恋をしているだろう。私が、いつまでも過去に囚われているのは、前に進もうとしないのは、ただの自分勝手な感傷じゃないだろうか。
目の前にいる佐藤先輩は、本当に優しくて、素敵な人だ。彼の気持ちを、無下にしたくなかった。そして何より、私自身、この寂しさから解放されたいと願っていたのも事実だった。
「……よろしくお願いします」
私がそう言うと、先輩は心から嬉しそうに、そして安心したように微笑んだ。
「ありがとう。大切にするよ」
こうして、私に初めての彼氏ができた。聡太くん以外の、初めての彼氏が。
先輩との交際は、本当に穏やかで、幸せなものだった。週末は、一緒に美術館に行ったり、お洒落なカフェでスケッチをしたりした。彼はいつも私の話を優しく聞いてくれ、私のペースに合わせてくれた。聡太くんとの、まるでジェットコースターのようだった恋とは違う、穏やかな湖の上をボートで進むような、静かで満たされた時間。
私は、この幸せを大切にしようと心から思った。聡太くんへの想いは、綺麗な思い出として心の小箱にしまっておこう。そう、決めたはずだった。
その年の夏休み。中学時代の友人だった田中くんから、グループLINEに一枚の写真が投稿された。地元の夏祭りの写真だった。浴衣姿の懐かしい友人たち。その中に、私の姿もあった。そして、私の隣には少し照れたように笑う先輩がいた。
『音無、彼氏できたんだってな!美男美女じゃん!』
田中くんからのメッセージに、友人たちが次々と「おめでとう!」とコメントを寄せる。私は、少し恥ずかしく思いながらも「ありがとう」と返信した。
その時、ふと思った。このグループLINEには、聡太くんもまだ入っている。彼は、この写真とメッセージを見るだろうか。見たら、どう思うだろうか。
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ちくり、と胸が痛んだ。別に、悪いことをしているわけではない。でも、彼に知られるのはなぜか少しだけ怖かった。もう恋人ではないのに。私が誰と付き合おうと、彼の知ったことではないはずなのに。
彼からの反応は、何もなかった。既読の数は増えていたから、きっと見てはいるのだろう。その沈黙が、彼がもう私のことを何とも思っていない証拠のようで少しだけ安心した。そして、ほんの少しだけ寂しかった。
大学は、先輩と同じ都内の美術大学に進んだ。彼は油絵科、私はデザイン科。キャンパスは違ったけれど、私たちの関係は続いた。国際交流サークルに入って、活動に夢中になった。留学生の友人もできて、世界が広がっていくのが楽しかった。
彼とのデートは、いつも楽しかった。私の行きたいところに連れて行ってくれ、私の好きなものを一緒に食べてくれる。私のことを、誰よりも理解してくれていると思っていた。
でも、心のどこかで、ずっと違和感があった。
映画を観ていても、アクションシーンになると、聡太くんと初めてデートした時の繋いだ手の感触を思い出してしまう。ラムネを飲むと、あの夏祭りの夜、二人で一つの瓶を回し飲みした時の彼の喉が動く音を思い出してしまう。
私の日常のあちこちに聡太くんの影は、私が思っている以上に深く、濃く、こびりついていた。先輩の優しさに包まれれば包まれるほど、その影は、まるでシミのように、よりはっきりと浮かび上がってくるのだった。
「琴葉はさ、時々、すごく遠くを見てるよね」
大学三年の春、彼の部屋で映画を観ている時不意にそう言われた。
「え?」
「ううん、なんでもない。俺の知らない琴葉がいるんだな、って思っただけ」
彼はそう言って、寂しそうに笑った。
違う、そうじゃない。彼が知らない私じゃない。私自身が、まだ捨てきれずにいる、古い私なのだ。そのことに気づかないふりをして、私はただ曖昧に微笑み返すことしかできなかった。この穏やかな幸せを、手放したくなかったから。
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