遠い街、届かない想い

 大阪での新しい生活は、想像していた以上に大変だった。見慣れない街並み、右も左も分からない通学路、そして何より耳に馴染まない大阪弁のイントネーション。新しい学校のクラスに、僕の居場所はどこにもなかった。転校生というレッテルは、良くも悪くも注目を集める。「東京から来たんやて」「なんでこっち来たん?」という好奇の視線と質問に、僕は必死で笑顔を貼り付け当たり障りのない自己紹介をした。

 最初の数ヶ月は、東京のことばかり考えていた。特に、琴葉のことだ。今頃、何をしているだろう。僕がいなくなった席には、誰が座っているんだろう。文化祭は、楽しかっただろうか。考えれば考えるほど、胸が締め付けられるように痛んだ。夜、一人でベッドに入ると、不意に涙がこぼれた。枕を濡らしたのは、生まれて初めてだった。

 時々、琴葉とLINEでメッセージをやり取りした。といっても、「元気?」「こっちは元気だよ」「勉強大変?」というような、当たり障りのない内容ばかりだ。僕たちは、もう恋人じゃない。ただの、元クラスメイト。その厳然たる事実が、短いメッセージの文面からもひしひしと伝わってきた。絵文字の数も返信の速さも、以前とは明らかに違っていた。

 それでも、僕はその細い糸を手放すことができなかった。彼女との繋がりが完全に消えてしまうのが、怖かったのだ。この糸が切れたら、僕たちの間にあったすべてが本当に無かったことになってしまうような気がした。


 季節は巡り、僕は高校生になった。

 新しい環境にも少しずつ慣れ、部活動を通じて友人もできた。なんとなく、父が持っていた一眼レフに興味を持ち写真部に入った。ファインダーを通して世界を切り取るという行為は、心を無にすることができて僕には合っていたのかもしれない。大阪の賑やかな街並みも、人懐っこい友人たちも、それなりに好きになっていた。大阪での生活は、充実していたと言っていい。

 それでも、心のどこかにはいつも琴葉の影があった。鞄につけたペンギンのキーホルダーを見るたびに、あの夏の切ない思い出が昨日のことのように蘇る。


 高校二年の夏休み。東京の旧友、田中から一通のLINEが届いた。

『よう聡太!元気か?これ見ろよ!』

メッセージに添付されていたのは、クラスのグループLINEに投稿された一枚の写真だった。それは、地元の夏祭りの写真だった。浴衣姿の懐かしいクラスメイトたちの中に、琴葉の姿があった。中学の頃よりも少し大人びて、綺麗になった彼女は、僕の知らない男子生徒の隣ではにかむように笑っていた。心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。

そこへ、田中からの追い打ちのようなメッセージが届いた。

『琴葉、彼氏できたんだってさ。同じ高校のやつらしいぜ。お前も頑張れよ!』

頭では分かっていた。当然のことだ、と。僕たちはもう四年前に別れたんだ。彼女が新しい恋をするのは当たり前のことだ。むしろ、祝福すべきことなんだ。そう、自分に何度も言い聞かせた。

でも、心の奥がズキリと鈍く痛んだ。少しだけ。いや、正直に言えば、ものすごく悔しかった。僕だけが、まだあの日々に囚われているような気がして、惨めになった。

 それでも、写真の中の彼女が、本当に幸せそうだったから。僕と一緒にいた時よりも、もっと素敵な笑顔をしていたから。それでいいんだ、と思おうとした。嬉しい、という気持ちも嘘ではなかった。ただ、その嬉しさが、ガラスの破片のように、少しだけ痛かった。

 その日から、僕は意識的に琴葉のことを考えないようにした。鞄につけていたペンギンのキーホルダーを外し、机の引き出しの一番奥にしまった。彼女とのLINEも、僕から送ることはなくなった。


 過去は過去だ。僕は、前を向いて歩かなければならない。そうやって、僕は自分の心に分厚い蓋をして、さらに二年の月日を過ごした。

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