最後の日々

 引っ越しまでの数日間は、まるで夢の中にいるようだった。現実感がなく、すべてがスローモーションのように感じられた。学校の友人たちには転校のことが伝わり、「聡太、元気でな!」「大阪でも頑張れよ!」「たまには連絡しろよ!」と励ましの言葉をかけられた。でも、そのどれもが、僕の心には全く響かなかった。

 琴葉とは、学校で会ってもどこかぎこちない空気が流れた。周りの目があるから、僕たちは必死で普段通りを装った。けれど、二人きりになると、何を話せばいいのか分からなかった。未来の話ができない恋人同士というのは、こんなにも息苦しいものなのかと身をもって思い知らされた。

 そして、別れの日が来た。引っ越しの前日。

僕たちは、隅田川の土手を並んで歩いていた。この夏、二人で手を繋ぎ夜一緒に散歩をした思い出の場所だ。季節は移ろい、賑やかだった夏祭りの気配はもうどこにもない。川面を渡る風が、少しだけ肌寒かった。

「明日、何時の新幹線?」

「昼過ぎのやつ。十二時半くらいかな」

「そっか……」

途切れ途切れの会話。どちらも、本当の最後の言葉を切り出せずにいた。

「聡太くん」

琴葉が、不意に立ち止まって僕の名前を呼んだ。

「これ、あげる。お守り代わり」

彼女が差し出したのは、小さなキーホルダーだった。僕が以前、雑貨屋で「これ可愛いな」と呟いたのを覚えていてくれたのだろうか。水族館の人気者、ペンギンのキャラクターだった。

「……ありがとう。大切にする」

受け取ったキーホルダーを、僕は強く、強く握りしめた。これが、僕たちが恋人だった最後の証になる。

「元気でね。大阪でも、頑張って」

「……琴葉も。元気で」

言いたいことは、山ほどあった。大好きだ、と。離れたくない、と。何年かかったとしても、必ず迎えに来る、と。でも、その言葉を口にしてしまえば、せっかく固めた決意が、ダムのように決壊してしまいそうだった。

「じゃあ……そろそろ、行くね」

琴葉が、僕に背を向けた。その小さな背中が、ゆっくりと遠ざかっていく。引き止めたい衝動を、奥歯を噛み締めて必死に堪える。これが、僕たちが選んだ結末なのだから。

 彼女の姿が、夕暮れの街並みに溶けて完全に見えなくなるまで、僕はその場から一歩も動けなかった。空っぽになった心に、川風が虚しく吹き抜けていった。僕の中学一年生の夏は、そして僕の初恋は、こうして静かに、あまりにもあっけなく幕を閉じた。

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