第二章:蠢く影

――カツ……カツ……。

 乾いた音が、ホールの静寂を切り裂いた。一定のリズムを保ちながら、ゆっくりと、しかし確実に近づいてくる。反響のせいで距離が掴めない。三人は息を詰め、互いに顔を見合わせた。陽菜の顔から血の気が引き、凛は闇の先を鋭く睨んでいる。私は震える手で、懐中電灯の光を音のする方へ向けた。

 闇の中から、ぬるりと影が一つ現れる。古い洋館に似つかわしい黒いドレスに白いエプロンをつけた女――使用人の格好だ。だが、その姿は明らかに異常だった。顔は青白く、生気のかけらもない。虚ろな瞳は焦点を結ばず、首はあり得ない角度に折れ曲がっている。未熟な人形師が無理やり捻じ曲げたように、頭がだらりと肩に垂れ、動くたびに気味悪く揺れた。

 女の霊はゆっくりとこちらを向いた。虚ろな瞳がぴたりと私たちを捉える。口が音もなく大きく開かれ――次の瞬間、四肢をめちゃくちゃに動かしながら、凄まじい速さで迫ってきた。カツ、カツという音は、床を引っ掻く爪の音だった。

「――っ!」

 声にならない悲鳴が喉に詰まる。頭が真っ白になり、足が床に縫い付けられたように動かない。

 棒立ちの私の両腕を、強い力が掴んだ。

「優、しっかり!」凛の鋭い声が麻痺した思考を揺さぶる。

「こっち! 早く!」陽菜が泣きながら私の手を引く。その勢いに引きずられ、足がようやくもつれながら動き出した。

 私たちはただがむしゃらに走った。迷路のような廊下を曲がり、階段を駆け上がり、また下る。どれくらい走ったのか覚えていない。気づけば音は消え、書棚の並ぶ広い部屋に転がり込んでいた。その場にへたり込み、肩で息をする。

 直接の危険は去った。だが、胸の奥には重く冷たい絶望が残った。あれは幻覚なんかじゃない。この屋敷には本当に“いる”。そして、私たちはそこから出られない――その事実だけが、否応なく突き付けられた。

 どれほど時間が経ったのか。書棚に囲まれた部屋で、私たちは床に座ったまま呼吸を整えるしかなかった。音はもう聞こえない。だが、一度植え付けられた恐怖は、心臓に冷たい根を張り、体を縛り続けている。

 ようやく頭が回り始めたとき、安堵よりも先に、強い違和感が脳裏をよぎった。

(あの使用人の幽霊……首が折れていた。でも、調べた事件記録では、二人の使用人のどちらも首の骨は折られていなかったはず……どういうこと?)

 記憶と現実が食い違っている。私が口を開きかけた、その時――。

「な、なんだったの……今の……」

 陽菜の震える声が静寂を破った。膝を抱えて小刻みに震える彼女に、私は言葉を飲み込む。

「わからない。でも、感傷に浸ってる場合じゃないわ。何とかしてここから出ないと」

 凛が冷静さを装った声で言った。その言葉に、私たちは再び現実に引き戻される。

 そうだ、出口を探さなければ。外に出て、助けを呼ばないと。

 私はポケットを探り、指先に硬く滑らかな感触を見つけた。

スマホ……! ポケットに入れておいたから、失くさずに済んだようだ。

 暗闇の中、スマホの画面が三人の顔をぼんやり照らす。それは現代文明が生んだ、一筋の希望の光だった。すぐに通話アプリを開き、110番をタップする。頼む、繋がってくれ――!

 しかし、画面に表示されたのは無慈悲な『圏外』の二文字。メールもSNSも開けない。外界との繋がりは完全に断たれていた。

「……そっか……ダメ、だよね……」

 陽菜がか細く呟く。その一言で張り詰めていた糸が切れ、肩から力が抜けた。終わった――もう誰にも助けを求められない。

(何としても二人を守らなきゃ)

 心の奥で強い決意が燃え上がる。(そして必ず、この屋敷から脱出する)

 だが、どうすれば? 出口はすべて封じられている。闇雲に逃げ回っても、いずれあの化け物に見つかるだけだ。何か……この状況を変える手掛かりは――。

 その瞬間、脳裏に閃光のような記憶が蘇った。図書館の埃っぽい郷土資料コーナー。今回の調査のために読み込んでいた古い本。その一ページを、私は確かに――。

「待って!」

 私は声を上げ、写真フォルダを必死にスワイプする。何度もスクロールして――見つけた。

「あった……!」

 画面に表示されたのは、一枚の古い画像データ。図書館で撮影しておいた、『迷宮屋敷』の古い見取り図だった。暗闇の中、三人の顔が再びその光に照らし出される。先ほどとは違う、確かな希望の光。

「これを見て。この屋敷の見取り図よ。闇雲に逃げるのはやめよう」

 私は言葉に決意を込めた。

「これを使って、脱出の糸口を探すの」

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