五
定例会議。
月に一度地下鉄警備隊で行われる会議は、普段であったら近況報告、陳情、回答と行われるが、元々彼らは地下鉄開通まで影狼と対峙するためにつくられた臨時の部隊である。
本来ならば会議は二〇分と経たずに終了し、すぐにそれぞれの任地に赴くことになるのだが、今日はいささか様子が違った。
明らかに地下鉄の外に、影狼が漏れてきていたからである。
普段は地下鉄警備隊に出向隊員を輩出はしても定例会議自体には顔を見せない警察官やら、政府関係者やらが顔を見せていたため、平隊員たちすら、現状の物々しさを嫌というほど感じ入ることとなったのである。
「警察からの報告です。浅草方面に影狼が現れたと」
「遊郭のほうで遊んでいた客が目撃したとのことです……遊郭なんて入り込まれてしまったら、こちらで情報規制することなんてできません」
吉原の遊郭。娼芸妓解放宣言が出されてから早半世紀。
あそこは未だに日本の暗部を秘めており、座敷に上がることができるのは常連客かその紹介のみ。圧力で介入することのできない不文律をなおも維持しているそこで、遊郭で働く遊女や客にまで影狼の存在が漏洩したとしても、口止めすることができないのである。
遊女たちの噂から、少しずつ少しずつ広まっていく影狼の噂。それは帝都につくられようとしている地下鉄のように蟻の巣状に表に出ずとも確実に広がっていっている。
既に影狼の存在は、地下鉄開通の危機だけの問題ではなくなりつつあった。
一方、定期的に影狼の遺体を回収して調査を進めている医療班から「あのう……」と手が上がった。
「はい、進藤くん」
「発言ありがとうございます。先日から、影狼の遺体に変化が見られたため、その報告に上がりました」
「……影狼に変化?」
「はい。今まで、影狼は人間の特性と獣の特性を持った、謎の生き物として認識しておりましたが、彼らは地下鉄でしか見ることができませんでした。なにか地下鉄ではないといけない理由があるのではないかと、視覚、聴覚などを重点的に調べておりましたが、そこで先日地上で回収した影狼の遺体と比較して、やっと違いを特定することができました」
そう言いながら、進藤医師は黒板に絵を貼り付けた。大きな目の写生である。
「これは?」
「今まで地下鉄で目撃退治されていた影狼です。彼らは嗅覚が獣のように鋭い一方、目が悪かったのです」
「目が悪いと、本来なら夜目が利かないのでは?」
「いえ。むしろ嗅覚に頼る生き物は、明る過ぎる場所を好みません。視覚の情報が嗅覚の情報を遮る場合があるため、感覚を絞るために暗がりに潜るのです」
狼などの獣が夜行性なのも、視界を遮ることで返って嗅覚を鋭くするためだという。
それに地下鉄警備隊面々は困った顔をして、ときおり顔を見合わせたりしていた。九郎のように田舎で野犬やら狼やらから畑を守るために戦わなければならなかった者たちは、その特性を理解していたが、帝都育ちだとその辺りがピンと来ないのかもしれない。
普段であったのなら会議中は適度に聞き流している九郎は、その話を今まで対峙していた影狼のことを思い返しながら比較していた。
(……足が速くても側面に潜り込めば倒すことができたのは、嗅覚に感覚を絞り過ぎた弊害か。だが、地上で遭った影狼は?)
あれは嗅覚に頼ってはいないようだった。でなければ、わざわざ九郎の背後に庇っていた月子に狙いを絞る説明ができず、月子が避けるのが上手くなかったら、九郎の刀が影狼に届かなかったら、既に月子は死んでいたのだ。
あれは明らかに月子を視界で捉えていた。
考えがまとまらず、九郎の腹がぐるぐると回る。このところは考え過ぎのせいなのか、九郎はひたすら腹を下していた。
それはさておいて、進藤医師の説明は続く。
「続きまして、地上に上がってきた影狼なのですが……あれは明らかに視覚に頼っています。視覚に頼っているからこそ、瓦斯灯で夜でも明るくなってきた地上に上がってきたのでしょう」
「それは影狼の別個体が生まれたということかね?」
「いえ。自分はむしろ、影狼は進化しているのだと推測します。視覚もそうなのですが」
そう言いながら吉原医師は次の絵を黒板に貼り付ける。今度は足の写生らしいが、それを見て誰かが息を飲んだ。
今までは前足は犬や狼のように小さく丸まっていたはずだが、地上に出てきた影狼は、まるで指を伸ばしたような足をしていた。これではまるで。
「……影狼が、人間に近くなっている……?」
それは地上に出てきた影狼の遺体を見ていない人間にとっては衝撃的な話であった。かつて人間の祖先は猿だったとされているが。影狼は初期の時点では人間に近い姿をしていても大神のような行動ばかり取っていた。人間の進化論から大幅に外れた進化を遂げようとしていた。
九郎はそれにぐるぐると頭を悩ませる。
(影狼が人間に近付くって……人間に近付くってどういうことなんだ? 俺達は結局なにと戦っているんだ?)
もし人手がいたのなら、影狼の巣を特定して、大本から断ち切ることができただろうに、残念ながらそれが無理だということをこの場の人間の誰もが知っている。
後手に後手に回っているからこそ、影狼の進化を許してしまった。
この場にいる誰もがそのことをわかっているはずだったが、誰もそのことを口にすることはなかった。
影狼が進化を遂げ、人間になろうとしている。
今のご時世、幻想小説や怪奇小説はムーブメントとして本屋を賑わせているが、化け物が人間を仲間にしながら増えて人間を恐怖のるつぼに陥れる話は何作も存在していたが、化け物が人間になろうとする話は聞いたこともなかった。
地下鉄警備隊は、うすら寒い恐怖を覚えて、誰もかれもが黙り込んでしまったのだ。
皆が黙りこくる中、ただ淡々と進藤医師の話は続く。
「そう考えるのが妥当かと思います。今は意思疎通ができません。彼らは人間の言葉を言葉と認識していないからです。ですが時間が経てばいずれは聴覚が優れ、言葉のひとつひとつを聞き取れるようになり、やがて人の言葉を……」
「待ってくれ。そこまで言ったら……!」
動物が人の形を取るおとぎ話など、この国にはいくらでもある。
鶴が助けてくれた男に恩返しするべく女の姿になったり。狐が人の姿を取って化けて出たり。はたまた狸が人の姿を取って化かしたり。
それは大正の今でも、おとぎ話として語り継がれているが。
人間を襲い続けた化け物がだんだん人間に近付いていっているなんて言われたところで、おとぎ話のように人間に溶け込もうとする結末を迎えることなく、被害が増えるだけなのが目に見えている。
幻想小説や怪奇小説に出てくる化け物のように、人間に恐怖心を植え付けることしか、彼らにはできない。
だが猶予がないことだけは確かだった。
既に地下鉄関係ない場所にまで被害が及んでいるのだ。
今は地下鉄開通を指示した政府により、情報は抑え込まれているが、人の口ほど軽くて戸を立てられない場所などない。
これが大きく知られれば、帝都は大変なことになる。
「とにかく、このことは政府と連携の上、地上に現れた影狼は警察が対処します。我々は引き続き地下鉄の警備に……」
「ですが、地下鉄だけでいいんでしょうか?」
そう焦った声を上げたのは、九郎と同期の別部隊の隊員だった。帝都の表通りならば、警察官も動いているから今まで通りの生活を送れるだろう。だが、表通りや厳重な警備の中で暮らせる人々はごく一部だ。
一般人は今も昔も、そんな表立ったところで暮らしてはいない。裏通りで、江戸と明治と大正のごちゃ混ぜになった治安のよろしくない場所で暮らしているのだ。そんなところで影狼が現れて、人に危害を加えたとしても、地下鉄警備隊はもちろんのこと、警察だって間に合うかはわからないのだ。
しかし、上官はきっぱりと言い切る。
「我々はあくまで鉄道警備隊の特殊部隊だ。くれぐれも警官や軍人のように、市中の平和や正義のために戦っていると思わぬように」
「しかし! それでは巻き添えを食らった民間人はどうなるんですか!?」
「我々の使命は、地下鉄開通予定日までに工事を無事完遂できるよう、作業員の護衛に当たること。影狼と戦うのは影狼が工事の妨害をしているからに他ならない。優先順位を履き違えるな」
同期はなおも言い募ったものの、上官にそうピシャリと言われ、黙り込んでしまった。
(……それは当然だが)
九郎は原に言いそびれたことを、ずっと考え込んでいた。
獣からじょじょに進化していく影狼。
それが人になったとき、彼らはいったいどうなるんだろうか。
そもそもあれがどこから来て、どうして作業員を攻撃するのかがわからないままだ。地上に出てきたのは、視覚で物事を判断するようになったと医師に説明されたが。
(……俺たちは正義の味方ではない。地下鉄を期日までに無事開通できれば、解散する部隊なんだから……だが。その影狼は、本当に無作為に人を襲っていたのか? そういえば、最初に出会ったときからずっと。月子さんは影狼に襲われていた)
今までは獣のような行動ばかりを示し、作業員が怪我させられていたからわからなかったが、医師により行動もまた人間に近付いていると告げられて、状況が変わってきたように感じていた。
そして地上で影狼と対峙した九郎は、彼だけが知る直観で感じていることがあった。
(……影狼は、最初から狙いは月子さんなのでは?)
それはあまりにも荒唐無稽過ぎて、何故と聞かれても答えが出ない。
もしかしたら匂いで異物と判断したものを襲っていただけなのかもしれないが、目が利くようになった影狼が真っ先に襲ったのは、凶器を構えた九郎ではなく、彼が背後に庇っていた月子だったと……そこしか説明できる部分がないのだ。
なによりも。
(……あれには、月子さんを害そうとする悪意があった)
具体的な説明はできずとも、その場で対峙した九郎の直観で、そう感じていたのだ。
そもそも、月子が幼くあどけない言動と年相応の妙齢の女性の言動の振れ幅が大きく、人懐っこい性格まではわかっているものの、それ以外彼女についてわかることがなにひとつないのだ。
どうして一般の作業員が瀕死の重傷を負った影狼から逃げ切ることができたのか。
そもそも一般人のはずの彼女がどうして地下道を走って逃げていたのか。
進化した影狼の攻撃からすら軽く逃げることができたのか。
なにも覚えてない。なにを聞いてもわからないという彼女。
それでもなんとかして彼女の口から、影狼となんら関わりがないことを九郎は証明して欲しかった。
(月子さんは、なにも悪いことなんてしてないじゃないか……もし月子さんのせいで影狼が湧いてきているなんて言ったら……)
鉄道会社からしてみれば、謎の化け物のせいで期日に間に合わない瀬戸際に立たされ、仕方なく地下鉄警備隊を編制したのだ。元凶がわかっているなら、彼女を捕らえて影狼を一気に誘き寄せる餌にしかねない。
彼女が記憶喪失で身元不明な以上、戸籍上は「いないものとして扱われる」。
いない人間を好き勝手に使う者の存在くらい、九郎は心当たりがある。
地下鉄警備隊の面々だって、怪我人をさんざん出してきてもなお、使命を守っている。
彼らは本来は九郎と同じく、鉄道に憧れを抱いて入社した身。
それが気付けば地下鉄開通のために化け物退治に従事しているのだから、女ひとりの命で地下鉄に巣くう化け物が一掃できるのならば躊躇だってしないだろう。
特に原は女性だ。女性は女性に優しくすることはあっても甘やかすことはしない。
もし月子の存在が影狼を誘き寄せていると知ったら、躊躇せずに囮として差し出してしまうだろう。
(それは……嫌だ)
九郎は月子とひとつ屋根の下で生活していてわかったのは、彼女は本当に邪気のない性格だということくらいだ。子供じみている上に、物事にとことん疎い。
田舎では田舎の習慣があり、帝都では帝都での常識がある。
それらに女性のほうがとことん厳しく、それらに慣れるまでひいこらしてきた九郎にとって、それらを無視して自然体で生きている月子の存在は心が安らいで、いつしか彼にとっての居場所になっていた。
彼女からしてみれば、九郎は同じ屋根で暮らす他人であり、大家の妻のほうがよっぽど懐いている存在かもしれないが。
(彼女を守ろう)
九郎は身勝手にもそう思った。
月子の気持ちも帝都の民の不安も地下鉄の作業員たちの安否も無視して、そう誓ったのである。
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