三章
一
影狼が地上に現れるようになったとしても、地下鉄警備隊のやることは変わらなかった。
作業員たちがきびきびと働いたおかげで、地下鉄の開通もあれだけ予定が逼迫して大丈夫なのかと言われていたにもかかわらず、予定通りに終わりそうではある。
しかし同時に、作業員たちから不安の声も上がっていた。
その日の午前中の作業はなんとかひと段落が付き、警備をしていた九郎たちも珍しく鯉口を切らずに済んだ日であった。
「なあ……俺たち変なもの呼び寄せてないよなあ? 江戸城の呪いとか」
その中で作業員たちが休憩中、水を飲みながらおにぎりを食べつつ、ボソボソと会話をしているのが耳に入った。
「なんでだよ。俺たちなんにもしてないだろ」
「そりゃそうだけどよぉ……ほら、徳川の埋蔵金を探し出そうとして、痛い目を見たってぇ話だってあるだろ」
「あんなもんホラ話だろ」
「でもよぉ。元々徳川さんは、江戸城周辺の風水に気を遣ってた人だろう? 俺たちでその徳川の守りを破ったとかは」
「お前、最近流行りだからって、幻想小説読み過ぎだよ。煙草吸って酒でも飲んで寝てろよ」
そう言って作業員がバシバシと語り出した作業員の頭を殴っていた。
幻想小説は最近の流行りだし、その中では不可解な出来事に巻き込まれる不運な人々が大勢書かれている一方、自業自得で不幸な目に遭う人々もたびたび登場していた。
特に徳川埋蔵金やら江戸城周辺に敷かれていた風水の話やらは有名な話であり、なにかにつけては蒸し返されて、帝都でなにかがあるたびに「江戸城の呪いだったのでは」と囁かれ続けている。
今回は原因不明正体不明な影狼が、なにもわからないまま地上にまで姿を見せるようになったため、余計に作業員たちから不安が広がっている。
その言いようのない不安は、普段ならばインチキやオカルトと一蹴されてしまう話と結びつき、川に石を投げたかのように、少しずつ波紋を広げていっていた。
彼らからしてみれば、帝都で暮らす人々が遭遇したこともない影狼を想像して漠然とした不安を覚えているような生易しいものではない。
腕を食いちぎられて仕事ができなくなった者、傷口がひど過ぎて止血が間に合わずに亡くなった者を大勢見てきているのだから、余計に不安は付きまとう。
その言いようもない不安が付きまとっているのは、なにも作業員たちだけではない。目の前で新入隊員を食いちぎられている地下鉄五警備隊の隊員たちだって同じだ。
あれが人間になろうとしているなにかだと知っている時点で、既に現場で作業を行っている作業員の抱え込んでいる不安とは別の不安に付きまとわれていた。
「影狼が人に近付いてから、作業員たちの不安は尽きないようね」
そう原がボソリと呟くのに、九郎は顔を向けた。
原は原で、上層部からさんざん「影狼を殲滅しろ」「工事を遅らせるな」と言われる一方、影狼の調査続行の増員については渋い顔のまま「これ以上増員はかけられない」「なんとかしろ」と言われて頭を痛めていた。
ただでさえ、現在の地下鉄警備隊の人員はギリギリなのだ。
通常の鉄道警備隊はここまで死傷者が出ることはないし、警察から出向で人が来ることはあり得ないのだが、それを足してもなお、慢性的に人数不足に陥っていた。
補充隊員たちは練度が足りていても、影狼に対する警戒が足りず、ひとりで突貫して食いちぎられたり負傷を追ったりして、そのたびに現場で戦う隊員たちの士気を削り取っていく。削られた士気は、一朝一夕で回復できる訳もなく、彼らは慢性的な不安と足りない士気を、それぞれの方法で奮い立たせて、どうにかギリギリ現場を維持していた。
護衛任務に討伐任務に加え、調査任務にまで人を割いてしまったら、それぞれの数が足りなくなり、第一目標である、期日までに地下鉄開通工事を終えるために作業員を守り抜くということができなくなるから困るのだ。
現場を知っている原は、当然ながら上層部からの無茶ぶりに思い悩んでいるのだ。
一方、九郎は九郎で悩んでいた。
(……影狼の目的が月子さんだった場合、そもそも月子さんを狙う意味がわからない)
今までの影狼は、獣のようななにかだったため、余計にその目的はわからなかったものの、進化を遂げて人に近付きつつある影狼は、明確に月子に殺意を向けていた。
それは月子と一緒に影狼に対峙した九郎でなければ気付きようもない影狼への変化だった。
月子は妙齢の見た目に反して、あどけなく幼い精神の持ち主であり、あれに殺意を向ける意味が、全くわからなかった。
「……隊長、仮にですが」
「なに」
原は首を捻って九郎を見つめる。
九郎は声をかけたのはいいものの、どう伝えるべきかと、思い悩む。
「……地上で影狼が明確に特定の人物だけを狙っていた場合、どうしますか?」
「どういうこと?」
普通の人間であったら、「なにを言ってるんだ」と一蹴してこの会話は終わりを迎えるが。
そもそも正体不明な影狼と戦っている時点で、地下鉄警備隊は普通から外れしまっている。
当然ながら原は普通の反応をする訳がなく、顔を引き締めて話を聞く体勢になる。
彼女のその姿勢は普段であったのならば九郎も好ましく思うものの、話す内容が内容だったため、どうしても怯んでしまう。
しかし事態はなにひとつ改善案が見当たらず、ひとつでも手がかりがなかったらどうしようもないほどに詰んでいる。
怯んでばかりもいられず、九郎は口を開いた。
「影狼の目的がなんなのかはわかりかねますが……地上に出て暴れているのは、何者かを捜索した上で、特定人物の捕獲もしくは殺害のために行動しているとしたら……地下鉄警備隊としては、どう動くべきでしょうか?」
これは一種の賭けだった。
地下鉄警備隊の現状は芳しいとはお世辞にも言えない。足りない人員、削られていく士気、上からは無茶ぶりばかりで、かろうじて警察から出向の隊員が送り込まれてくるばかりで、鉄道会社は納期のこと以外なにも言わない。
九郎の言い出した話を、まともな人間ならば相手にしないし、鉄道会社と取引をしている病院の医師ならば、月子の話を聞いた途端に興味を持って彼女を調べはじめるかもしれない。性格の悪い者ならば、影狼にいちいち命を狙われる月子を使って影狼を一網打尽に捕縛にかけるかもわからなかったが。
九郎の知っている限り、原は女だてらに地下鉄警備隊の部隊長を勤める女傑だが、暴力で人を屈服させることも、市井の人間を危険にさらすことをよしとすることもない。
もしその特定の人物が狙われているとするならば、どう反応するかを知りたかった。
藁にもすがる思いで告げた言葉に、原はしばし沈黙をする。
「……そうね。難しい問題だわ」
ようやっと口を開いた原の声には熱がない。
「どうしてですか?」
九郎はおそるおそる尋ねると、原は熱のない口調のまま話を続ける。
「本来だったら、これ以上作業員を減らす訳にはいかないのだから、影狼殲滅のためにも、影狼が捜索しているという人物を捕獲し次第、囮として使用し、あるかもしれない影狼の巣を特定した上で潰すのが一番確実だと思う」
それは医師や性格の悪い者が提案しそうな話だった。
想定していた回答ではあったが、原の口から出た言葉だったことに、思わず九郎は息を飲んだ。
「……それは、特定の人物に対しての配慮があまりにもなくはありませんか?」
「地下鉄開通のための作業員と帝都で暮らす市井の人々の命と、特定の人物の命。どちらかを天秤にかけないといけない場合、どうしても大人数の命を優先させないといけないのが、この任務に就いている人間の使命だと思うもの」
原の言葉はどこまで行っても正しい。本来の九郎だって、狙われている相手が月子でなかったのならば、彼女と同じような回答をしたであろうが。
相手は月子なのである。だからこそ、九郎は迷っている。
「私たちの使命はあくまで期日までに地下鉄開通させるため、影狼討伐をしてこれ以上の期日の遅れを防ぐこと。本来だったら市井の人々の命も、特定の人物のことも、計算に入れてはいけないのよ」
「……ですが」
「でも、その話が本当だとしたら」
原は息を吐き出した。この人物は迷ったときは、常に大きく深呼吸をする。
作業の音が響き、軽い震動が足下から伝わってくる。休憩を終えた作業員たちが、午後からの作業に取り掛かりはじめたのだ。
今日は本当に久しぶりに影狼がいなく、あと数ヶ月になる地下鉄開通の期日にまで、どうにか作業を終えられるんじゃないかという希望が見えてきた。
その中、原は淡々と言葉を続けた。まるで絞り出すかのように。
「……たったひとりの人の命で終われるとは思えない。影狼をたったひとりで誘き寄せて倒せば終われるなら、今まで犠牲になった作業員たちだって、その人たちを囮にして倒すことができたはずだもの。実際にそんな作戦が立てられた非道な部隊だってあったはずだけれど、未だに影狼討伐は終わっていない。つまりは殲滅できなかった」
「その特定の人が可哀想だってことではないんですね?」
「私だってその人が気の毒とは思うけれど……残念ながらこれ以上こちらも人員は割けない。だから必要最低限の人数でどうにかするしかないと思うの」
そう原は言葉を締めくくった。
地下鉄のあちこちに付けられた豆電球が、チカチカと音を立てて点滅した。
九郎は少しだけ喉が渇いた気がしたが、それを無視して口を開いた。
「……月子さんは、影狼に狙われている気がします」
原がかすかに息を飲んだような気がした。九郎は視線を地面に落としているせいで、彼女の今の顔が見られなかったが。
原は尋ねる。
「根拠は?」
「ありません。ですが。彼女がどうして影狼から逃げ切れたのか、影狼の動きが読めるのかはわかりません」
本来の九郎は田舎者であり、情緒というものに欠け、いざとなったら苦肉の策の選択肢も持っているような人物だった。浅はかと言われるような言動は取らない、そんな人物。
しかし彼は月子を知ってしまった。彼女にのぼせ上がっている、浮かれていると言われてもしょうがないほどに、彼女に振り回される日々に安寧を見出してしまっている。
だからこそ、彼女が訳もわからぬまま命を狙われる現状に我慢がならなかった。
「ですが……前に外食しようとした際に襲ってきた影狼は……明らかに月子さんを狙っていました。これはその場で対峙したことのある俺じゃなかったらわからなかったと思います」
原は九郎の訴えを凛とした眼差しを向けて静かに聞いていた。
作業の振動音にかろうじてかき消されないような音声で、九郎は訴えを続けた。
「ですが彼女は本気でなにもわかっていないんです……自分が狙われているのかも、憎まれているのかも……俺は、どうしたらいいんでしょう……」
ただ預かっているだけの娘だし、彼女を大家夫妻に預けている。
彼女は影狼から逃げ切れるかもしれない。だが、逃げ切れないかもしれない。囮にしてみなかったらどうなるのかがわからないのだから、どうしようもない。
九郎の憔悴した顔をしばらく眺めていた原は、しばらくまじまじと彼を見つめてから、ひと言告げた。
「今度彼女を連れてらっしゃい」
「……隊長?」
「勘違いしないで。囮にするつもりはありません。ただ既に影狼は地上を徘徊していることは確認しているし、警察にも負傷者が出ている。彼女を預けている寄宿舎のご夫妻は影狼を撃退する力はないのだから、警備隊と一緒にいたほうがまだマシでしょう?」
原の言葉は合理的であった。
理論武装しなければ、月子や九郎に配慮ができないとも言える。
「それに、彼女は記憶喪失なのにどうして影狼に命を狙われているのか、こちらはあなたの証言以外しか確認が取れないのだから、一度本当かどうかを見なければわからないもの。彼女を預けていたためにご夫妻が怪我を負ったら、あなただって後悔するでしょう?」
「隊長……ありがとうございます」
九郎は深々と頭を下げた。
その日、別の警備箇所で影狼は出現し、討伐は成功したものの、とうとう九郎たちの待機していた場所には影狼は出現することなかった。
その日の工事が終了し次第、夜間警備の部隊と交替し、九郎は帰ることになった。
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