九郎は困りながらも、その日の勤めを果たし、銭湯で湯浴みしてから寄宿舎へと帰ることにした。

 詰め襟の制服は鉄道関係者か警察官、最近では男子校の制服に使われるが、基本的にはそれくらいしかいない。

だからこそ、銭湯に向かう瓦斯灯の並びで、物珍しそうに眺められるものの、鉄道警備隊員だと判断したら、すぐに興味が失われて視線が飛び散っていく。

 そんな視線を覚えながら九郎がいつもの道を通り過ぎていく中、足音の妙なブーツの音が響いた。おっかなびっくりという調子で、歩くリズムがどうにもぎこちないのだ。


「ああ、くろさん。お帰りなさい」


 そう言ってにこやかに声をかけてきたのは、着物に袴を合わせた月子であった。

 髪型は大家の妻がずいぶんとかわいがってくれているようで、今日は夜会巻きにまとめられて花の髪飾りで留められ、ずいぶんと華やいだ印象だった。

 髪留めを気にしていた月子に大家妻が気付いたらしく、ときおりこうして雑誌を買ってきてはそれと睨めっこしながら髪の毛と髪飾りを弄ってもらっているようだった。

 最近は大家の妻から家事を習っているらしく、そのときどきによって彼女の纏っている匂いが違う。鰹節や煮干しの出汁の匂いを漂わせていたり、陳皮の匂いを纏わせていたり。

 今日は料理の練習をしなかったらしく、無臭であった。おそらく習っていたのは繕い物だろうと当たりを付け、自然と九郎は微笑んで月子に目を合わせた。


「ただいま帰りました。これから銭湯ですか?」

「は、い……奥さんは、一緒に行こうっておっしゃってたんですけど、もうそろそろこの時間だとくろさんといっしょに銭湯に行って、いっしょに帰れると思ったら、いてもたってもいられなくなって、奥さんにごめんなさいしてから、ここまで来ました」


 そう無邪気に言う月子に、九郎は少なからずときめいたが、同時にそっぽを向いた。


(いくら記憶喪失で、たまたま助けたのは自分だからとは言っても、こんな綺麗な人に好かれているなんて自惚れちゃいけない……こんなにあどけない人だ。ただ子供が真っ先に見た大人に懐いているだけで、そこになんの意味もないのだから)


 逢引と称して活動写真を見に行き、フルーツパーラーに行ってきたからと言って、田舎育ちで男女交遊がほぼなかった九郎は、自惚れられるほど自尊心は高くなかった。

 世の中、そこで見栄を張って結婚に持ち込む人間も大勢いるが、残念ながら九郎は張れるほどの見栄も持ち合わせていなかった。

 九郎が必死に自分の気持ちを誤魔化しているのを、月子は不思議そうに小首を傾げた。


「くろさん?」

「……いや、なんでもありません。あまり遅くなったら奥さんも心配するでしょうね。早く銭湯に行って、早く帰りましょう……ああ、ところで食事はもう済ませましたか?」

「奥さんは一緒に食べないかと誘ってくれたけど、くろさんと食べたいからいいって断りました……奥さん怒りますか?」

「さすがにそれでは怒らないと思いますよ。なら、一緒に食べに行きましょう。なにがいいですか?」

「そばー」

「蕎麦ですね、わかりました」


 まるで母親に付きまとって「今日のご飯なに?」と言う幼子の会話だと思いながら、九郎はのんびりと月子に合わせて歩いた。

 月子はときおり妙齢の女性らしい言動を取るようになったものの、全体を通したらまだまだ子供の範囲だった。そのことに九郎は安心していた。

沸き立つ気持ちはおそらくは庇護欲であり、恋慕とは異なるものだろうと、自分を納得させられるのだから。

 彼女は相変わらずブーツのヒールには慣れていないようだった。


「あまり合わない履き物を履き続けるのは体によろしくありません。もし合わないのでしたら、見繕いましょうか?」


 九郎はおっかなびっくり歩く月子の足取りを気にしながらそう言うと、月子は首を振った。


「歩きにくい、好きです。歩いている感じがして」

「……歩きにくいのがよろしいのですか?」

「はい、浮いているより、歩いている感じがします。えっちらおっちらは、みっともないかもしれません。でも、みっともなくっても、歩いているのが好き、です」

「うん?」


 普通に考えて、歩いていても浮く感覚なんていうのはまずない。


「浮くって、なにがですか?」

「う?」


 九郎の問いに、月子はキョトンとした。


(……まさかと思うが、今のは思い出した記憶か?)


 月子がキョトンとした目で九郎を見上げる中、九郎は彼女の腕を掴んで必死で尋ねる。月子は九郎に揺すぶられて困惑したように九郎を見つめる。


「いったいどこで浮いていたんですか?」

「う……く……ん?」

「頑張ってください。思い出してください」


 月子が難しい顔で「ムームームームー……」と眉間に皺を寄せたとき。妙に埃っぽく異様に獣臭い一陣の風が吹いた。

 最初は野犬かと思った。ときおり山に捨てられた犬が野生化して暴れ回るからと、危ないから猟銃を片手に殺しに行く大人たちは大勢いた。

 だが、ここは町中だ。帝都のど真ん中だ。そんなところで野犬が暴れるなどありえない。

 九郎は戦慄を覚えて、腰の剣の柄に手を当てる。


「……まさか、影狼?」


 そんな馬鹿な、と九郎は思った。

 今まで、地上にまで影狼は出てくることはなく、いつも地下鉄開通工事の場所にしか出てくることはなかった。だというのに。


(いったいどういうことだ……?)


 そう思いながらも、九郎はひとまず月子を背に庇う。


「月子さん、俺から離れないでくださいね。守りきれなくなりますから」


 小さく頷く月子にほっとしながら、九郎は鯉口を切った。

 また一陣の風が吹き、それと同時に聞き覚えのある「グルルルルルル……」という嘶きが耳に滑り込んできた。影狼の吐き出す、生ぬるい息の熱を、九郎はたしかに感じた。


(この時間帯だったら……まだ帰宅中の人がいる。早めに終わらせないと)


 そもそも政府や鉄道会社は影狼の存在を認知していても、一般人が影狼の存在なんか知る訳もない。せいぜい怪我や恐怖で辞めてしまった地下鉄工事の作業員たちの噂が出回っているだけで、被害者たちも未だに自分たちがなにに襲われたのかすら、知る由もないのだから。

 早く殺した上で片付ける旨を上に連絡しなければ、大変なことになる。

 やがて、瓦斯灯の下に影が伸びた。影狼がぬらりと現れ、こちらに迫ってきたのだ。鋭い爪を、九郎は刀で受け止める。ガツンッと火花がほとばしる。

 いつも地下道はかろうじて明かりが点けられる程度であり、こうして瓦斯灯で赤々と照らされて見るのは初めてのことだった。

 そこで九郎は戦いながら、違和感を覚えた。


(……前に見たときは、もっと獣じみた姿をしていなかったか?)


 何人もの影狼による負傷者を診て、影狼の遺体を診ていた医者の見立てでは、初期の影狼は獣に近いなにかだと言っていた。

 人の姿に近いものの、獰猛さも行動も人とは程遠い。当然ながら、彼らに言葉は全く通じず、意思疎通は不可能に思えていた。

 だが、今目の前で自分に襲い掛かって来るこれはなんなのだろう。

 目が鋭く、鼻は低く、今までのものよりも毛は薄くて素肌に近いなにかだった。その上こちらを睨み付けて嘶く姿は、瞳孔がかっ開いている。まるで薬をやった男のようなのだ。

 口元に泡を吹かせ、喉をグルグルと鳴らすのは、鉄道でたびたび注意されては鉄道警備隊が運んでいくような、迷惑極まりない男の姿をしたなにか。

 だが理性のない血走った目、今までよりは薄くとも人間にしては毛深過ぎる体毛と、人間と呼ぶことができないのはたしかで、今まで戦っていた影狼と地上にまで出て襲いかかってきた影狼と、同じものとして見てはいけないこと以外、なにもわからなかった。

 やがて、この人間に近い影狼が「グラァァァァァ」と奇声を発して、九郎の真後ろに爪を伸ばした。そこには月子がいる。


「……っ月子さん!」


 普通であったら、おそろしいあまりに固まって動けなくなり、爪で喉を抉られていてもおかしくなかった月子だが。

 彼女は冷静に三歩分後ろに下がったのだ。その分、影狼の動きは空振り、大きな隙が生まれる。

 九郎はその隙を突いて、影狼の脇腹を剣で深く刺した。

赤々と照らして見える姿が人に近くて、ひたすら不快な思いで絶命していく影狼を眺めた。


「……いったい、どういうことなんだ」


 なんとか剣を抜き取り、手拭いで血を拭き取ってから、このまま放置していたら人が来ると考える。

 結局は、寄宿舎に連れ帰って、大家夫妻に地下鉄警備隊に連絡を付けてもらうこととなったのだ。

 電話なんて贅沢品、寄宿舎の責任者たる大家でもしてないと持っている訳もなく。

 当然ながら原含めた現場の責任者やら医療班やらが大勢寄宿舎を訪れて、困惑気味に事情聴取が行われることとなった。

 この慌ただしい中、本日非番だった警備隊面々も怪訝な顔で戸を開けて眺めていたが、隊長格が来ているとわかるや否や、ピシャンと戸を閉めてなにも聞かない素振りを見せた。休みの日まで、隊長の顔は見たくないものであった。

 影狼の遺体は、寄宿舎の共同スペース……旧長屋の通り、共同使いの井戸の近くに茣蓙が敷かれ、その上に横たえられた。九郎の切った傷口はとっくの昔に乾いて、ただ異様な獣臭さを醸し出していた。

 原は眉を顰めて、影狼の遺体を見ていた。

 影狼と常に対峙していなかったら、やや毛深い人の遺体と見間違えてもしょうがないほどに、人に近付いてしまっている。


「……今まで、地上に出た影狼なんていなかったわ」

「はい……しかも」


 医療班は影狼を一旦袋に入れると、そのまま車で持ち帰っていった。

 人間なのか獣なのかさっぱりわからない影狼が、地上に出た途端に人に近付いてしまった。

 戦いの末に進化したと思えばいいのか、発生してから徐々に進化し続けているのか、影狼を解剖しない限りはなにもわかりようがないのだ。


「……とにかく、お疲れ様。ひとまずは鉄道会社と政府には報告を入れておきます。おそらくは夜間の出歩きがしばらくは大幅制限されるかと思います」


 夜になったら闇に包まれていた江戸時代ならいざ知らず、大正の世は明るい場所は明るくなり、夜になっても人気ひとけが少なくなることが減っていた。

 まるで江戸時代に逆行したかのように、夜は闇と恐怖に閉ざされようとしていた。


「ですよね……いくらなんでも、こんなものがうろうろしていては一般人は出歩くこともできません」

「そうね。あと月子さんだけれど」

「はい」

「……よく無事だったわね」


 原の指摘に、九郎は言葉を詰まらせた。

 まだ練度の足りない地下鉄警備隊員が、初陣で影狼に肉を抉られ、入院の末に除隊されていることはよくあった。その新人を諫め、どうにか初陣を無事に終わらせたくとも、血気盛んな若者は保守的な先輩や規律を嫌う。慣れなくてはいけなくても慣れることはなく、ただ諦めることしかできなかった。

 それだというのに、彼女は無傷のままピンピンして、怖がって九郎の腕にすがりついているのだから、怖がっている割に胆力が据わっているように見えるだろう。

 だが、九郎からしてみれば、彼女の異様さが再び際立ったようにしか見えないのだ。


(月子さんは……影狼の動きが見えていた? あんなもの、動きに慣れてないと見える訳でもないのに)


 影狼の動きは鋭く速く、それでいて不規則な動きだ。

 凄腕の剣客や現場に立ち続けた剣士でなかったら、目で追うことすらできないはずだ。獣駆除の専門たるまたぎですら、人のような獣のような影狼の動きを読み取るのは難しいというのに。

 九郎にだって影狼の動きは見えていた。だが見えているのと、見えた上で対処するのとでは、雲泥の差がある。

 彼女は情緒が幼く、知識が乏しく、言動が見た目に反してあまりにもアンバランスだ。

だんだんと成長をしている今でも、彼女は妙齢の女性と童女を行ったり来たりしている。それが記憶喪失のせいなのか、記憶喪失になる前からそうなのか、九郎では判断が付かない。

 しかし、成長しようがしまいが、影狼の対処だけは異様に上手い。

 月子は別に影狼を仕留めることができている訳ではない。彼女は華奢であり、剣を振り回すほどの筋力はない。

だが、攻撃さえ当たらなかったら、死ぬことはまずないのだ。彼女の行動はまるで無駄がない。


(でも彼女は戦えないのに……そんなことあり得るのか?)


 普段の月子の言動を見ていても、彼女はあまりに幼く、年不相応の言動しかしない。武道の達人でもない限り、攻撃を読み切ることなんてできないというのに、彼女にはそれがいともたやすくできている。

 戦えない武道の達人なんて、九郎は当然聞いたことがなかった。

 結局原に伝えるべきかどうかを考えても、彼女を怪しまれたくない一心で、口にすることすらできなかったのである。

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