1-4 実際に在るのだから仕方がない

 ヒグマの逆立っていた毛が急速にくたくたになっていった。鼓動なのかそれとも呼吸の脈動なのか、小刻みな震えが感ぜられた。


 ゴツい後足が力なく折れ、ズルリと獣体が崩れ落ち、俺はその体重に押しつぶされて「ぐう」と呻いた。だが勢いと力任せの圧迫はもう無い。ただビクビクと小刻みに上半身を痙攣させて身動きすらしなかった。


 俺の方はといえば、息は荒れ放題、全身は痛み放題。しかも身体の上にはクソ重たい熊の胴体が乗っかっていて、身動きどころか声を出すことすらも出来やしなかった。


 しかしそれでも、決して小さく無い達成感が在った。何とか上手くいったと安堵する。少なくともコレで、デカい刀で真っ二つにされる未来はドコかに行ったのだ。


「痛、痛え、いててて」


 痛みをこらえ、這々の体で何とか熊の身体の下から抜け出した。

 全身がバラバラになりそうだった。まさにスクラップ寸前のポンコツ状態。痛くない箇所を探す方が難しくて、俺はホントに生きて居るのかなと疑心暗鬼になるくらいだ。


 そして息を整えると、身動き出来なくなったヤツを見下ろした。


「ザマみれ」


 それ以外の感想なんてナニも出て来なかった。


 上手くいって良かったと、本当にそう思う。咄嗟の思いつきだった。結局コイツは自分自身の体重で、自分の背骨を刺し貫いたのである。




 ヒグマは口から泡を吹いて喘ぐだけで、もう暴れようともしなかった。


 紛うこと無き激痛で、それどころじゃないんだろう。

 背骨は完全にイっちゃったようで、こうなったらもう後足はもう利かないだろうし、たとえ根性でゾンビみたいに上半身だけで追いすがって来たとしても、さっきみたいな全力失踪はもう無理ないんじゃなかろうか。


 ソレはソレで別の怖さがあるけれど。


 剣を取り返したかったけれど、ヤツの背面に埋まり込んでいて、このデカブツをひっくり返さないと引き抜くことは出来なかった。


「何だったんだよ、コイツ」


 根本的な疑問は在るけれど、それ以上に俺は自分自身を何とかしたかった。

 服がボロボロなのは言わずもなが。それ以上に俺自身がズタボロだった。病院に行かなきゃと思ったが、自分の足で歩いてたどり着ける自信が無かった。


 救急車でも呼ぶか?しかし自分が自分の為に救急車っていうのも何だかなぁ。それともタクシーか。何にしても服は着替えなきゃ。


 一旦今住んでいる部屋に戻るとしよう、と踵を返したときである。かちゃり、と目の前のドアが開いた。

 そしてその隙間からセルフレームの眼鏡をかけた、どこか不安げな表情の若い女性が顔を覗かせたのだ。


「あの、決着はつきました?」


 恐る恐るといった体で、彼女はそう尋ねてきたのである。




 彼女の部屋に招かれて、傷の手当てをしてもらった。


「あの、どうもありがとう御座います。パーカーまで貸してもらって」


「あのボロボロの服じゃあドコにも行けませんよね」


 恐る恐るといった感じの彼女だったが、怪我の手当は随分と手際が良かった。

 しかも妙な踊りまで披露してくれた。「治れ~、治れ~」と呟きながら、床に座り込む俺の周りを、不可解なダンスをしてぐるぐる回って見せるのである。


 からかわれているのかなとも思ったが、本人はいたって真剣な表情で踊っていた。

 なので、密教的な信者なのかも知れないと、気が済むまでやらせておいた。奇行はともかく、キチンと治療までして衣服を貸してくれた相手なのである。


 取敢えず骨は折れていないみたいだが、キチンと病院で看てもらった方がよい。この辺りではドコソコ病院が評判も良いので、ソコで診療してもらったらどうかと助言までいただいた。


「あの熊、見ましたよね」


「はいそうですね。時々エレベータに潜んで居ますね」


「時々ってコトはコレが初めてではないってコトですよね」


「わたしも二、三度遭遇してますね。何時も殺気満々なんで困ってました」


「警察には届けてないのですか」


「届けてませんね」


「ダメでしょ、あんな猛獣放って置いたら。捕らえるか駆除してもらいましょうよ」


「言っても信用してもらえませんから」


「いや、確かに、マンションの七階で青竜刀構えたヒグマに襲われたなんて言ったら、脳味噌の具合を疑われるでしょうけど。でも事実なんだし。一歩間違えたら死にますよ、っていうか俺もホント、死にかけたんですから。いやマジで」


「はい。先ほども陰から応援していました」


「見てたのなら助けて下さいよ。警察に通報するとか」


「あの状況だと外にはナニも通じませんので。電話だろうとメールだろうと、たとえ大声で叫ぼうと無駄です。何をどうしたところでこのマンションは外界とは切り離されて、世間様からは気付いてもらえない場所になっていますから」


 この女性はナニを言って居るのだろうと思った。


「このマンションの存在に気付いて興味を持った。その時点でもう、招かれてしまっているのですよ」


 そして契約を結んだら、もうどうにもならないと彼女は言った。




「コレはいったいどーゆーコトなんですか!」


 俺は件の不動産屋に怒鳴り込んでいた。


 デカい刃物を持ったヒグマに襲われ命からがら逃げ出してきた。ソコの同じ階に住んでいる女性に「普通のコトですよ」などと言われた。コレがこのマンションの日常なのだと。


 説明不十分だ、客をだますなんてトンデモない会社だこんな非常識な物件即解約してやる、拒否るなら訴えてやると勢いよく机を叩いて、先ほどのオッサンに喰ってかかったのだ。


「騙すだなんて。契約を結ぶ前に全てご説明させていただいたではありませんか」


 不動産社員は再びリーフレットと説明用のパンフを用意すると、先刻の説明を再開するのだ。


 築二〇年九階建て鉄筋コンクリートマンション七階中央区画 所有者から依頼された賃貸物件 3LDK 全室フローリング PG BS NW接続済み 駐車場区画普通乗用車一台分使用可


「お間違いございませんね?」


「ヒトを襲うヒグマが出るだなんて一言もいわれてません」


「アレは向こう側から迷い込んできた近隣住民ですよ。自分の土地でもないのに一方的に所有権を主張して、不法な抗議デモを繰り返す困った方々です。法律事務所や住宅苦情相談所等に解決を依頼しているのですが、向こう側が話のテーブルに着いてくれなくて手を焼いてます」


「抗議デモ!そんなコト言い張りますか。殺されかけたんですよ」


 それにどう見たってヤツはヒグマだった。

 あるいはヒグマにとてもよく似た、青竜刀を振り回す厄介極まりない猛獣だ。しかも市民(具体的には俺)がなます切りにされそうになったのである。むしろ国家権力の出番だろう。


「警察は民事不介入ですからねぇ」


「そーゆー問題ですか。トラブルが在るなら事前に説明の義務が在るのでは?」


「我々の責任は土地とソコに建てられた建物の管理のみです。

 住民間のトラブルは当人同士による話し合いによる解決。あるいは地域コミュニティの責任者による仲介。要は区長さんとか町内会長さんの出番ですね。こじれるようなら弁護士事務社や法律事務所等への相談。それでもダメなら民事訴訟と、そういう流れになるかと」


 何だと、のらくら言い逃れしやがって。なんて不誠実な会社なんだ。


「それに件の諸々は全てリーフレットに記載されています。PG(ポルターガイスト)あり、BS(ブロードソード)完備、NW(ネクスト・トウ・ワールド:隣接世界)接続済み。これらの用語の、口答によるご説明は不要とおっしゃったではありませんか」


 確かに言った。間違いじゃないよ。でも普通はそんな略語だなんて思わないだろ。

 普通住宅情報でPGつったらプロパンガスだし、BSつったら衛星放送だし、NWだったらネットワーク、インターネット関連だ(最近はあまり見ない記述だけれど)。


 一般常識が欠落しているよ。契約書の一番下に用語の説明も明記されていたけれど、こんな小文字普通読まないよ。そしてそもそも、である。


「ポルターガイストだの隣接世界って何ですか」


「物理的な霊障とお隣の世界ですよ。霊障に関してお客様の場合は、護身用の剣とワンセットになってございます。ちなみにお隣というのはパラレル・ワールドとか平行世界とか言われているモノです。昨今ではisekaiと書いても海外で通用するのだとか」


「ウンチクなんかどうでもイイです。そもそも、そんなモノが在る訳ないでしょ」


「実際に在るのですから仕方がありません。それにお客様も実体験した直後なのではありませんか?」

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