1-5 ゆっくりと語り始めた

 ふざけんな、と俺は吠えた。全部織り込み済みか、この確信犯め。

 叫ぶと同時に立ち上がり、目の前に在った契約書をビリビリに引き裂いた。「解約だ、二度とこんな会社と契約なんてするか」と喚いた。細切れにした書類を部屋の中にまき散らした。


 そんなモンじゃこの鬱憤うっぷんを晴らすなんて出来なかった。

 こんなコトで解決しないということ百も承知だ。

 けれど、せずには居れなかった。このはらの底から湧き起こるモノを、その一欠片なりとも叩き付けないと気が済まない。


「そんな事をされても何の意味もございませんよ」


 そして返ってきたのは淡々とした物言いだった。


 コノヤロウ、しらばっくれた物言いしやがって。


 もう一度吠え返そうとして、ソコで急に我に返った。俺は何故なぜか応接間のソファに行儀良く座っていたからだ。


 あれ、いつの間に腰を下ろした?


 激昂して立ち上がり、このおっさんを見下ろしていたのではなかったか。


 それは何とも曰く言い難い感覚だった。

 気分が妙だ。まるでエキサイトしていた自分自身が、昇っていた頭の血が一瞬で足首の辺りにまで引きずり落ちたような感触。

 もっと簡単に言えば、さっきのまで自分が無かったコトにされたような落ちつかなさだった。


 しかも何故、たったいま破いたばかりの契約書が目の前のテーブルに乗っている?


 ほんの数秒前、感情に任せてズタズタに引き裂いたはずだ。二枚目が在ったのか、それとも俺が破いたのはコピーか何かだったのか。


「そんなバカな」


 もう一度契約書をズタズタにした。これ以上ないくらいに細切れにした。そして立ち上がって端切れを部屋の隅にあったゴミ箱の中に叩き込んだ。


「そんな事をされても何の意味もございませんよ」


 静かな声音に我に返ってみれば、俺は再び応接間のソファに座っていた。そしてまたしても、破いたばかりの契約書が目の前のテーブルに乗って居るのだ。


 なんだコレは。


 在り得ないと、ムキに為って同じ事を二回繰り返した。四度目は窓の外に細切れになった契約書を放り投げすらした。でも結果は同じだった。

 四回が四回とも、気が付けば折り目すらないピンシャンな契約書を前にして、俺はソファに行儀良く座っているのだ。


 まるで撮った動画を巻き戻したかの様だ。アレだけ何度も粉々にした契約書は、破かれた跡どころか、シワ一つ無いキレイなままでソコに置かれているのである。


「そんな事をされても何の意味もございませんよ」


 都合四度目を聴かされた同じ台詞に顔を上げた。目の前には、薄い営業スマイルをたたえた不動産屋のおっさんが鎮座しているダケだった。


 そしていつの間にか俺の左手は、あの緑色の柄の剣を握り込んで居たのである。




 俺は今住んでいるアパートに戻ると、パーカーを着替えてあのマンションに向った。


 正直踏み込みたくはない。だが左手に握ったままの剣を置いておきたかったし、(また俺の手元に戻って来る可能性が在るけれど)あの女性に借りたパーカーを返さなきゃ成らない。

 それにこの得体の知れない状況を、キチンと理解する必要があると思ったのだ。


 あの女性は俺の知らないコトを知っている。子細全部を聞いて整理整頓できれば、この不条理な現状から脱出出来る糸口が見つかるかも知れない。


「あら、お帰りなさい」


 エレベータから出ると眼鏡をかけた彼女が微笑んでいた。

 七階の廊下では、ヒグマが解体されている真っ最中だった。廊下を血まみれにして、数人の男たちが刃物を持ってゴリゴリと熊のそこかしこを切り分けていた。


「よう、新入りの兄さん。よくコイツを倒したねぇ」


 無精髭を生やした小太りのおっさんがまばゆいばかりの笑顔で振り向いた。シャツが熊の血で真っ赤に汚れていた。


「さっきまで生きてませんでしたか?その熊」


「足腰の利かなくなった野生動物なんて、遠からず飢えて死ぬだけさ。苦しむ時間は少ない方がいい。コレは慈悲ってヤツだよ」


 言っている意味は判るが何とも釈然しゃくぜんとしなかった。青竜刀を持ち、ソレを振り回すくらいの知恵はあったのだ。

 足は立たないけれど、治療すれば生き続けることは出来たはず。抵抗できなくなった相手にトドメを刺して、そのまま解体するっていうのはどうなんだろう。


「ジビエなんて初めてです」


 解体の手伝いをしながら眼鏡の彼女の声が少し弾んでいた。


「え、コイツ食うつもりなんですか」


「兄さん、殺した相手をただ埋めたり、焼いて灰にしたりってのはことわりに反するだろう。それじゃあコイツはただの死に損だ。俺等がバラして、食って胃袋に収めて血肉にする。ソレが本当の供養ってもんだ」


「な、なるほど」


 無精髭のおっさんの手際は随分と良かった。何でも職業はフランス料理店の料理長らしい。それでも「廊下ここじゃ狭すぎて思うように出来ない」のだとか。


「フランス料理のコックが熊の解体だなんて」


「世間じゃお上品な料理人だなんて思われて居るがな。フランスの料理はジビエが基本なんだよ。野生動物を解体できなきゃ半人前だ」


 日本料理の料理人でも魚をさばけないヤツは居ねえだろ、と言われて同列で語っていいのかなと思った。しかし熊を仕留めてそれを料理だなんて。

 ソレは果たして日常的な光景なんだろうか。少なくとも俺は、熊の肉を使ったフランス料理なんてものは知らない。


 成り行き上解体を最後まで見学し、数時間をかけてあのデカい毛むくじゃらは様々な大きさの肉と骨と皮と内臓とに成果てた。そして仕留めたのはあんただ、一番美味い場所だと一〇キロを越える肉の塊を手渡された。


「あの、俺は料理の仕方を知りません」


「好きな様に料理すりゃいいんだよ。まぁ確かに寝かせる必要もあるし、臭みをどうにかしなきゃならん。じゃあコレは俺が預かっておこう。好きなときに俺の店に来い。材料分、しばらくはタダで飯を奢ってやろう」


 俺は九階の下関だ、と自己紹介されて店の名詞までもらった。

 それに釣られて一緒に解体を手伝っていたひょろ長い眼鏡の青年と、ガタイのイイ小柄な男性がそれぞれに「里浦」「仮屋」と名乗った。無精髭のおっさんの従業員らしい。


「兄さんの名前を教えてくれるかい」


「七階の深山です。深い山と書いてシンザンです。ふかやま、ではないので念の為。あの、よろしく」


 このマンションに長居をするつもりはないが、社交辞令というヤツだ。ペコリと頭を下げると「剣士シンザンか。格好いいな」と無精髭のおっさんが笑った。


「剣士なんかじゃないです。ただの行きがかりで」


「熊殺しの男にそんなコト言われてもな」


 屈託無く笑う無精髭のおっさんに俺は二の句を返すことが出来ず、苦し紛れに「トドメは下関さんでしょう」と言ったら、ガハハと大声で笑われた。


 ちなみに、熊は後日シチューとなって俺や店の客などにふるまわれた。少しクセはあったが意外に美味いと思った。




 眼鏡の女性はなだ羽多子はたこといった。


 業務用の電子電機部品を取り扱う会社の、事務員をやっているのだという。先ほど借りたパーカーを返したら、「そんなに急がなくてもよろしかったのに」とか言って、返したパーカーに顔を埋めて目をつぶった。


「・・・・」


 じっと固まって身動きしない。ひょっとしてニオイを嗅いでいるのだろうか?


「灘さん?」


「あ、すいません。ホントですよ、吸ってなんかいません。いえいえ、ああそうじゃないですよね。申し訳ありません。お上がりになって下さい」


「あの、いいんですか?独り暮らしなんでしょう」


「ご遠慮無用です。先ほども上がってらしたではないですか。今更ですよ」


「さっきは非常事態というか緊急というか、そんな感じだったので」


「玄関先で済む話でもありません。長い話になるので、ささ、どうぞ」


 彼女にうながされて靴を脱いだ。病院に行かなくてもよろしいのですか、と言われたが身体の節々が痛むだけで特にコレといった不具合はない。それでも、きっと明日は筋肉痛だろう。

 彼女が貼ってくれた湿布は結構効いて、身体は数時間前よりも随分と楽になっていた。


「では、わたしの知っている範囲でのお話になります。よろしいですね」

 珈琲を煎れてくれたテーブルの前で、彼女はゆっくりと語り始めた。

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