1-3 魂の叫び声だった

 幾度いくども足がもつれそうになった。

 つんのめってスピードが落ちる都度に、激ヤバな風切り音が手足や耳元を掠めて、マンションの壁だの床だのに派手な音を立ててブチ当たった。

 その度に、コンクリートの破片だの割れた照明の部品だのがバシバシ降ってくるのである。


 器物破損だ。マンションの持ち主に訴えられるぞ。

 クマ!いい加減にしろっ。


 怒鳴りたかったが怒鳴れなかった。息絶え絶えでそんな余裕が微塵も無かった。

 全力疾走しながら繰り返すジグザグジャンプ。半端なくキツイ。

 汗だくだった。目に入って視界が塞がるのが鬱陶うっとうしい。

 心臓の音がうるさくて、頭の中にガンガン響いていた。

 ゴウゴウとがなり立てる轟音だった。

 膝が笑い始めて居た。踏ん張りが利かない。足の筋が弾けそうだった。

 走りながら避け続けるのももう限界だった。


 くそう。こんなコトなら学生時代にもっと身体鍛えておきゃ良かった。

 情けねぇよ、マンションの廊下を走る程度で息絶え絶え、死に物狂いだなんて。


 突然、ガクリと膝が折れた。踏ん張り損ねたのだ。

 ジャンプが間に合わないっ。


 不意に、首筋にヒヤリとしたものが走った。

 身体が反射的に動く。

 咄嗟とっさに振り返って、押し止めるように左手のモノを両手でかざした。

 どかん、と手酷てひどい衝撃。

 俺は跳ね飛ばされ、また廊下にひっくり返った。黒い布袋がザックリと切り裂かれていた。


 ひいっ!


 良く受け止めたな、俺。

 無我夢中でナニが何だか分からなかったが、これで三度目。よくしのいだもんだよ、我ながらスゲえな。


 営業だの何だので散々歩き回っているけれど、学生時代からすっとろい事には定評がある。自分でもまぁしゃあねぇな、とあきらめていた。そんな俺でも危機一髪な状況になればコレだけのことが出来るんだ。見直したぞ、俺。


 でもすでに、状況はドン詰まりの最悪だけどな。

 青竜刀を構え直すヒグマはほんの数歩離れたところに立っていて、もう目と鼻の先だった。今ココで身を翻しても、そのまま背中から串刺しにされるに違いない。


 さっきは上手く避けれたけれど、コレは流石に距離が近すぎる。それに呼吸は荒れてゼイゼイと肩で息しているし足腰はもうガクガクだった。さっきと同じカエルジャンプはもう期待できそうにない。


 たぶん、次に瞬きをした瞬間、俺の胸にあの物騒な代物が突き刺さっているんじゃないかな。


 それは予感と言うより予知に近かった。

 そして無意識に握りしめた左手に、布袋の中に入っていたオリーブグリーンの鞘の感触があった。


 あっ、そうだ。俺はいま、剣を持っていたんだっけ。


 それはまるで、天からのお告げのような気付きだった。


 青竜刀の切っ先が繰り出された。

 そして、俺が布袋ごと鞘に収められたままの得物を振り上げたのはほぼ同時。

 またしてもガキンと固い音がして刃先を弾いたが、今度は何とか耐えられた。オタオタしてなければわりと見えるもんだな、と思った。


 パニック気味な焦燥感は随分と薄くなっていた。そもそも、ただ部屋を借りに来たダケだってのに、何故こんな不条理に振り回されなきゃならんのだ。そんな感じでだんだんと腹が立ってきたからだ。


 感情が煮立ってくるにつれて、頭の芯がすうと冷たくなる感触があった。


 そして手の中に在る剣が、熱く静かにささやいているような気がするのだ。


 自分を抜け、と。


 クマ相手に勝てるなんて思っちゃいない。けれど、一発くらい返してやらなきゃ気が済まない。


 手早く切り裂かれた布袋を破り捨てると、剣の柄を握り締めた。しゃがんだままの姿勢で抜剣する。音も無く冷たく滑らかな剣身が姿を現した。


 再び、ヒグマの突き込みが在ったのはその瞬間だった。


 ぎゅおん、と金属同士がぶつかりしなる音が響いた。


 次の瞬間、ドゴン、と結構な重量物がコンクリート製の手摺りに衝突する音が響いた。砕けたコンクリートの破片がびしりと俺の顔に当たった。

 ちょっと痛ぇ。

 俺のかざした剣がヒグマの青竜刀をらして弾いたのだ。


 再び、俺スゲエと思った。コレが火事場の馬鹿力ってヤツ?


 らされて、ヒグマは咄嗟とっさに切り返そうとした。だが青竜刀の柄尻は、ごんと音を立ててマンションの壁にぶつかって止まった。やっぱりその長物をこんな狭いところで振り回すのはムリがあるのだ。


 懐に入れ。


 またそんなナニかが瞬いて、そうだな確かにと俺はヒグマに体当たりした。体格差がありすぎてビクともしなかった。だがそんな事はどうでもいい。コレであの非常識な刀からは逃れられる。


 突然ヒグマが、がおおと喚いた。生々しい口臭とズラリと並んだデカい牙が間近で見えた。それダケでなけなしの意気が吹き飛ぶ迫力が在った。


 嗚呼そうだった、コイツは熊なんだった。爪や牙だけで俺を挽肉に出来る猛獣だったんだよ。素手で人間なんかワンパン出来るんだった。


 だけど何故かヒグマは必死で暴れていた。俺を振りほどこうと滅茶苦茶に暴れ始めた。

 逆に俺は離れてたまるかとしがみついた。ココで離れたらもう次はなかった。こんなチャンス二度となかった。

 もう足腰ガクガクで走る事なんてムリなんだ。離れた途端、あの大包丁で二分割されてオシマイなのである。


 いや、ひょっとするとモズのはやにえみたいな有様なのかも。


「お願いしますっ。誰か、誰か警察を!」


 必死になって叫んだ。何度も喚いた。喉が裂けるんじゃないかと思う程に。

 血を吐く程に声を張り上げ、ひどく獣臭い毛皮をつかみ、決して放してたまるかとしがみつき続けた。


 爪や牙も怖いが青竜刀はもっと怖い。あんなモノで切られたら痛いなんてもんじゃ済まない。

 味わったコトはないけれど断言出来た。死に方残酷ランキングでもトップテン入り間違いなし。出来る限りこの状態で粘って、この騒ぎに気付いた誰かが警察呼んでくれるまで耐えないと。


「誰か、誰か気付いてっ」


 叫き続けて、そしてしがみつきながらふと気付いた事があった。俺の右手にある剣がヒグマの腹に突き刺さっているのである。


 しかもブッスリ深々と、つばの辺りまでだ。


 いつの間に刺したんだろう。ああそりゃあ勿論もちろん、今しがた体当たりしたその瞬間、そのついでなんだろうな。全身の体重を賭けた渾身の体当たり。刺さりもするわ。


 ヒグマからしてみれば果物ナイフ程度の刃物なんだろうけれど、腹を刺されたらそりゃあイタイだろうな。俺だったらヒイヒイ子供みたいに泣いちゃうかも知れない。


 ある意味ナイス。


 しかしお陰でヒグマの暴れ様は半端なかった。青竜刀を手放し、何度も俺に噛み付こうとした。でも脇腹の辺りなので上手く届かなくて、何度も牙が俺の髪や上着を掠めるのだけれども上手くいかない。

 届かないと気付いて、こんどは闇雲に前足で腹に取り付く俺を掻きむしろうとするから、背中に回ってしがみつき直した。

 ここなら前足は届かない。


 何度も爪が俺の背中を引き裂いて、上着はすでにボロボロだった。間違い無く背中は傷だらけだろう。興奮しすぎて痛みを余り感じないのは幸いだった。


 そしたら今度は背面でその胴体をマンションの壁に叩き付けるのである。当然、コンクリートの壁とヒグマの背中の間に在るのは俺の身体だ。


 押しつぶされて「ぐえ」と呻いた。

 目から火花が出た。苦しいなんてもんじゃなかった。痛すぎて悲鳴すら出なかった。背骨が折れたかと思った。腹がつぶれて、口から内臓が飛び出すかと思った。


 味を占めたヒグマが壁への体当たりを繰り返した。その都度に「ぎょえ」とか「げぶ」とか珍妙な悲鳴が洩れ続けた。


 意識が何度も飛んで、その都度に右手が剣から外れそうになった。

 自我が吹っ飛ぶ度に何度も手繰り寄せ、失神しちゃダメだと必死になって歯を食いしばり、剣を握り締めた。もう今の俺には、コレしかすがるモノがないからだ。


 まったく、白昼マンションの廊下でヒグマにボディプレスされて死ぬなんて、滑稽or間抜け死体序列の何番目辺りだろう。

 別に俺は特に興味はないんだけどさ。ランキングなんて所詮他人の身勝手な価値観だし。


 でも俺は、雨上がりの路上に貼り付くつぶれたカエルやミミズじゃないんだ。そんな未来の為に今まで生きてきた訳じゃない。


 こんな不条理、受け容れてたまるか。


 おおよ、ふざけんじゃねぇぞ。


「いい加減にしろよ、この毛むくじゃら!」


 頭の中で何かがバクハツして俺は吠えていた。


 痺れて感覚が無くなりかけていた右手に渾身の力を込めた。刺さったままの剣を一気に引き抜く。

 そして持ち直して柄尻をコンクリートの壁に押し当て、背面ボディプレスを続けるその間隙をって一点に、熊の身体の中心線、背骨のある箇所に剣先を定めた。


 勢いに乗る毛むくじゃらな背中がどすんと俺を押しつぶした。

 と同時に、俺の右手につかんだ剣がゴキリと鈍い手応えを伝える。

 抵抗は一瞬だけ。


 剣は再び鍔の辺りまで一気に沈み込む。


 途端、ヒグマが絶叫を上げた。


 ビリビリとした振動が剣の柄に伝わって来た。

 周囲の空気を根底から震わす、正に魂の叫び声だった。

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