第2話 帰郷

 つくづく、自分は幸運な人間だと思う。

 五体満足で生まれ、衣食住に困らず、それなりに勉学の才があり、長男と言うこともあって大学まで行くことができた。これ以上を望めば罰が当たるのではとも思うが、まあ人とは度しがたい生き物で、次から次へとあれがしたいこれがしたいという欲がわいてくる。その欲のために、私は数年ぶりに郷里を訪れていた。

 懐かしい門の前に立つと、その奥の庭で鶏に餌をやっていた史郎がこちらに気づいた。こちらを振り向いた顔は、記憶の中よりずいぶんと大人びた印象を受ける。それでもまだ子供らしさの残る大きな目を一瞬見開き、弟は家の方に向かって声を張り上げた。

「兄ちゃん帰ってきた!」

 言った瞬間駆け寄ってきて、心底嬉しそうに、にこにこと見上げてくるのがかわいらしい。おかえりだの、疲れていないかだの、またかわいらしいことを言ったあとに、私の持つ鞄を見て土産かと現金なことを言うので苦笑した。

 縁側を小走りに踏みしめる音がして、やがて母が現れた。昼飯の準備をしていたらしく、額や前掛けに煤がついていた。

「あれまあ、また立派になって」

 私を頭の先からつま先まで見てそう言った母に、「前戻ってきたときも同じことを言っていた」と私は笑った。


 実家は何カ所か修繕され、いくらかきれいになっていた。私は真っ先に仏壇に向かい、先祖の位牌に手を合わせる。

 最も新しい位牌は義父のものだ。実の父は私がまだ母の腹にいる頃に死に、母は生家に戻って婿を取った。やがて史郎が生まれたが、それから二年後の大正五年に義父も病死した。

 義父は寡黙で、誠実な人であった。血のつながりのない私にも、史郎と同様我が子として隔てなく接してくれた。働き者でもあり、傾きかけていた仁科にしな家が持ち直したのも、義父の働きあってこそだ。

 居間に戻ると、史郎が畳に腹をつけ、足をぶらぶらさせながら雑誌を読んでいた。私が土産の一つにと持ってきた文学誌だ。

「どうだ、おもしろいだろ」

 史郎は私の言葉に、うーんと唸って「わしにはよく分からん」と言った。中学生には少々難解だったらしい。

「これよりこっちの方が好きだ」

 そう言って最中の入った箱を指さす。どうやら少なくとも一つは弟の腹の中のようだ。

「飯の前に菓子なんて食うな」

 言いつつ母が膳を運んでくる。私が帰ってきたからだろう。米が白米であった。

 飯を食いながら、色々と東京の話をした。人の多さと夜の明るさ、大学での授業の様子や学友との遊びの話などなど・・・・・・。

 特に史郎は飯が終わっても延々あれはこれはと聞いてくるので、少し困ってしまった。

「兄ちゃんの下宿は、ガラスの窓があるのか」

「ガラスの障子ならあるな。三野さんは庭いじりが好きで、いつでも庭を眺めたかったらしい」

 三野さんとは私の下宿の主人である。四十過ぎのやや恰幅の良い男で、東京の新聞社に長らく勤めている。その三野氏からの提案が、私の数年ぶりの帰郷の発端なのだ。

「その三野さんが、あんたの書いたものを新聞に載せたいって?」

「いや、わしの里が遠野の近くと聞いて、調査して何か書かないかって言われたんだ」

 三野氏夫妻と食事をしているときに故郷の話になり、私の里と遠野郷が近いと言うことが分かった。私は知らなかったが、遠野に伝わる伝説や昔話を集めた『遠野物語』なる本が明治の頃に出版され、好評を博したらしい。

 三野氏は大いに関心を示し、私に「第二の遠野物語を書け!」と酒に赤くなった顔で詰め寄ってきた。

 正直なところ、喜びより戸惑いの方が大きかったが、作文の力をつける良い機会でもあるし、良いものが書ければ将来に繋がる経験や人脈が得られるかも知れない。そう思って引き受けることにした。

「書けたものを何日かに分けて連載の形で出したいんだと。妖怪とか神の話をたくさん聞いてこい、絶対ウケると言われたよ」

「それはまあ」

「明日から遠野に行って話を聞いてくる。ついでに井出の家にも挨拶してくるよ」

 母は何も言わず、神妙な顔で漬物を口に入れた。

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