第三章:ダークマターの孤独

 観測は困難を極めていた。何週間経っても決定的なデータは得られない。宇宙の始まりの光はあまりにも微弱で、宇宙空間に満ち溢れる様々なノイズの中に埋もれてしまっていた。


 昴は次第に焦りと絶望に苛まれていく。

 彼は食事も睡眠もろくに取らず、研究室に籠りきりになった。


「ダメだ。俺の計算が間違っていたのか。それとも父の仮説そのものが幻想だったのか……」


 彼の呟きは日に日に弱々しくなっていった。


 私は昴の様子が心配になった。彼は明らかに栄養失調と睡眠不足に陥っている。高地での過度なストレスは高山病を悪化させ、場合によっては脳浮腫や肺水腫といった致命的な症状を引き起こす恐れがあった。


 そんな彼を私は必死に支えようとした。私は私のやり方で彼を励まそうと思った。私は彼に私がプラネタリウムで語っていた世界中の星の神話を語って聞かせた。


「ギリシャ神話ではオリオンは女神アルテミスと恋に落ちますが、最後は悲劇的な結末を迎えます。でも日本ではオリオン座は鼓星つづみぼしと呼ばれ、二つの明るい星が仲良く並んでいると考えられていました」


「中国では参宿さんしゅくと呼ばれ、二十八宿の一つとして占星術に用いられていました。アボリジニの人々は三人の漁師の物語を、マヤ文明では宇宙の火を表す神聖な象徴として見ていました」


「同じ星空を見ていても、そこに見る物語は人によって違う。科学的な真実は一つかもしれないけれど、人が星に託す想いは無数にあるんです」


 最初は私の話を「非科学的だ」と一蹴していた昴も、次第に耳を傾けるようになっていった。私の語る物語は彼の凝り固まった科学者の脳を少しずつ解きほぐしていったようだった。


 私は彼に料理も作った。高地での体調管理には栄養バランスの取れた食事が不可欠だった。ビタミンCは高山病の予防に効果があり、鉄分は高地での酸素運搬能力を向上させる。カルロスに教わったキヌアを使った料理は、必須アミノ酸をバランスよく含む完全栄養食品だった。


「ありがとう美星さん」


 ある夜、彼は初めて私の名前を呼んでそう言った。


「君の話を聞いていると、俺が探している光も、ただの物理現象ではないような気がしてくる。百三十七億年前に死んだ誰かの魂が、俺に何かを語りかけようとしている、そんな気が」


 彼のその言葉は私にとって最高の賛辞だった。科学と詩。その二つの世界が初めて交差した瞬間だった。


 だが運命は皮肉だった。その翌日。観測所のアラートがけたたましく鳴り響いたのだ。


 遠い銀河で超新星爆発スーパーノヴァが発生した。その爆発が放った強力なガンマ線バーストが偶然にも地球の方向へと向かっているという。


 超新星爆発は星の最期を飾る壮絶な現象だ。太陽の8倍以上の質量を持つ恒星が核融合の燃料を使い果たすと、星は自分自身の重力に負けて急激に収縮する。その反動で外層が宇宙空間に吹き飛ばされ、一瞬にして銀河全体を照らすほどの光を放つ。


 それはALMA望遠鏡のような精密な観測機器にとっては致命的だった。強烈な宇宙線ノイズが全てのデータを汚染してしまうのだ。観測は最低でも数週間は中断せざるを得ない。


 それは昴の挑戦が事実上終わりを告げたことを意味していた。


「終わりだ」


 昴はモニターの前で崩れ落ちた。


「俺はまた父に勝てなかった……」


 絶望が彼を完全に打ちのめしていた。私はかける言葉を見つけられなかった。ただ彼の震える肩をそっと抱きしめることしかできなかった。


 宇宙のダークマターのように深く暗い孤独が二人を包み込んでいた。


 ダークマター、暗黒物質。

 それは宇宙の約27パーセントを占めながら、光を発することも吸収することもない謎の物質だ。

 存在は確実だが、決して直接観測することはできない。


 今の私たちの関係もそれに似ていた。


 確かに引き合っているのに、その想いを言葉にすることはできない。見えない力が二人を結びつけているのに、それが何なのかはわからない。

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