第二章:137億光年の時差
私はアタカマに滞在し続けた。
カルロスのロッジの掃除や料理を手伝う代わりに、格安で部屋を貸してもらえることになったのだ。昼間は砂漠を散策し、夜は満天の星を眺める。そして時々昴の研究室を訪れ、彼ととりとめのない対話を交わす。
その穏やかで何もない時間が、私の傷ついた心を少しずつ癒していった。
砂漠での生活は思っていたより厳しかった。
昼間の気温は40度を超えるが、夜は氷点下近くまで下がる。湿度が極めて低いため、肌は乾燥しひび割れた。高地での紫外線は平地の数倍強く、サングラスと日焼け止めは必需品だった。
だがその過酷さが逆に心地よかった。
体の痛みが心の痛みを忘れさせてくれる。
古代の修行僧たちが砂漠で瞑想したのも、こういう理由だったのかもしれない。
ある夜、私たちは観測所の外で並んで星を眺めていた。空気があまりにも澄んでいるため、星がまるで立体的に見える。昴が静かに口を開いた。
「あのオリオン座のベテルギウス。あそこから地球までの距離は約六百四十光年だ」
それは私がプラネタリウムで何度も解説してきた知識だった。
「つまり今私たちが見ているあの光は六百四十年前。地球では室町時代にあの星を旅立った過去の光なんだ」
「はい」
「僕たちが見ている星空はいつだって壮大なタイムカプセルなんだよ。そこには決してリアルタイムの現在は存在しない。全ては過去からの幻影だ」
彼のその言葉に私ははっとした。過去の幻影。それはまさに今の私自身だった。私はずっと失われた恋の過去に囚われ、現在の時間を生きることをやめてしまっていた。
「私の悩みなんてこの宇宙の時間に比べれば、本当にちっぽけなものですね」
「いや」
昴は初めて星空から私へと視線を移した。
その深い瞳に無数の星々が映り込んでいる。
「僕はいつも過去の光ばかりを追いかけてきた。百三十七億光年という途方もない過去を。でも今僕の目の前で輝いている君のその瞳は……」
彼は少しだけ言葉を切った。
「紛れもなく今この瞬間の光だ。僕にとってはどんな遠い銀河の光よりも眩しい」
二人の間に静かで、しかし確かな引力が生まれ始めていた。それは万有引力の法則のように、質量を持つ二つの物体が必然的に引き合う力だった。
そのどうしようもなくロマンチックな空気を打ち破ったのは、カルロスの大声だった。
「オーイ、スバル! ミホ! 飯の支度ができたぞー!」
その夜、カルロスのロッジで私たちは三人でささやかな夕食を囲んだ。アルパカの肉のシチューが驚くほど美味しかった。アルパカはリャマの仲間で、南米アンデス高地に住む家畜だ。その肉は高タンパク低脂肪で、高地に住む人々の貴重な栄養源となっている。
その席でカルロスは私に昴の過去を教えてくれた。
「スバルもあんたと同じさ。過去に囚われてる旅人だ」
昴の父親もまた世界的に著名な天文学者だったこと。
だが父は新しい星を発見することにその人生の全てを捧げ、家庭を顧みなかったこと。
そしてその父が長年の研究の末、あと一歩で掴みかけながらも見つけ出すことができなかった幻の「ファーストライト」。
昴がずっと追い求めているのは、その父が見つけられなかった光であり、それは彼にとって偉大な父を超えるための唯一の方法なのだと。
「こいつは父親に認められたいだけなんじゃよ。たった一言『よくやったな』と褒めてもらいたいだけの、ただの寂しがり屋の坊主さ」
昴は気まずそうに黙ってシチューを食べていた。私は彼のその不器用な横顔にどうしようもない愛おしさを感じていた。
この人も私と同じ。
失われた何かを探してこの世界の果てまでやってきた孤独な旅人なのだ。
その夜、私は一人でロッジの屋上に上がった。そこから見える星空は相変わらず圧倒的だった。だが今は恐怖ではなく、不思議な安らぎを感じていた。
私はふと、ギリシャ神話のアンドロメダ姫の物語を思い出していた。海の怪物に生贄として捧げられた美しい王女が、英雄ペルセウスに救われる物語。古代の人々は星座にそんな物語を重ねて見ていた。
同じ星空を見ても、そこに見る物語は無数にある。
科学者は物理法則を、詩人は美を、そして普通の人々は人生の指針を星座に求める。
星空は全ての人間にとって鏡のような存在なのかもしれない。
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